2009年10月3日土曜日
哲学する科学:心の遺伝子、ミーム
それは、人間の模倣能力によって生まれたミームが生み出す、多様な文化を持っていることである。
≪国ごとの文化、風習≫、≪貨幣経済≫、≪宗教≫、≪映画≫、≪文学≫、≪IT社会≫、≪温暖化ガス排出権取引≫、≪ブログ≫、≪メルマガ≫…
これらは全て「ミーム」である。
前回はそういうお話をしました。
最近メルマガをご登録いただいた皆様は「ミーム」とは何か、ご存じない方も多いかと思います。詳しくは、バックナンバーをお読みいただくのがよいかと思います。
バックナンバーhttp://m.mag2.jp/b/M0094525(「ミーム編」は8月31日号以降の4号です。)
さて、今回からはいよいよミームについてのお話の核心部分に入っていきます。
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地球上のあらゆる生命現象は、太古の海に生まれた遺伝子という自己複製子の複製と変異が生み出している。
全ての生き物は遺伝子の乗り物(方舟)であり、人間を除くほとんどの生き物の行動は、気の遠くなるほどの時間の中で自然淘汰によって進化してきた遺伝子に還元できる。
そして、私たち人類が持つ「文化」はヒトの祖先の脳に生まれたミームという第2の自己複製子の複製と変異が生み出している。
ミームはヒトの脳から脳へ人によってコピーされ、急速な変異を繰り返しながら、無数のヒトの脳という環境の中で淘汰され、進化してきた。その表現系がヒトの文化である。
…と、ミームについて今までの話を(いままで使ってない表現も使って)ざっとまとめるとこんな具合でしょうか。
では、私たち一人一人にミーム理論を当てはめて考えると、どういう仮説が導き出されるのでしょうか?
私たちは個人レベルでは、例えば以下のようなミームを運んでいると考えることができます。
≪将来の夢≫、≪家族への愛≫、≪お気に入りの小説に含まれるメッセージ≫、≪経済観念≫、≪政治的思想≫、≪友達との付き合い方≫、≪休日の過ごし方≫、≪仕事への姿勢≫、≪恋人の愛し方≫、≪趣味≫、≪人生観≫、エトセトラ、エトセトラ。
私たち人間は、生まれてきてからずっと、こうしたミームを私たち自身の外部から取り込み、それを取捨選択しながら生きてきました。
そうした営みの中で、時として強力なミームが生み出され、急速に多くの人の脳の中にコピーされ、(例えば≪コスプレ≫のように^^;)「文化」として認知されていくわけですが・・・
しかし日々私たちの中で行われている膨大な「ミーム処理」(考え事や、友達とのおしゃべり、テレビを見たり、芸術を鑑賞したり…)によって私たちの頭の中に生まれる無数のミームの変種たちは、ほとんどがコピーされることなく、消えていきます。
ですが結果として、私たちの脳の中には、無数のミームが存在しています。そして、それらミームの組み合わせが私たちの個性を形作っている、ともいえるかもしれません。
ならば、ミームは私たちの「心の素材」といえるのではないでしょうか。
想像してみてください。
私たちが脳の中に蓄え、捨てることなく少なくともしばらくの間は保持しているミームたちが、私たちの心の在り方を決定している・・・(例えば≪幼少期に見た母の背中≫、あるいは昨日読み終えた小説の主人公の≪鮮烈な生きざま≫など)
もちろん、遺伝的に温厚であったり怒りっぽかったりということもあるかとは思います。しかし、私たち人間を特別なものにしているのは、自らの中にミームを蓄え、他者とミームをやり取りし合い、結果として自分の中のミームの組み合わせを変化させていくことで、自分の≪信念≫や≪生き方≫といったものを形成していくという側面なのかもしれません。
つまり、「文化の遺伝子」であるのみならず、ミームは私たちの「心の遺伝子」でもある、と考えられるのです。
『私たちのミームは私たちなのである。』 ~スーザン・ブラックモア
参考文献
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊
哲学する科学:奇妙な生き物
今回からは、スーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしての私」で説明されている、ミームおよび私たち人間の正体に関するお話に入っていきます。
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『人間は奇妙な生き物だ。私たちの体が他の生き物とまったく同じように自然淘汰によって進化したのは疑う余地はない。けれども、私たちは多くの点で他の生き物たちと違っている。』 ~スーザン・ブラックモア
この意見に納得のいかない人もいるかもしれません。以前は私もその中の一人でした。
なぜなら、人間とそれ以外の生き物はどちらも同じように遺伝子の情報をもとに作られており、結局人間も動物の一種だし、「科学的に」人間の解明が進めば進むほど、人間と動物を分け隔てる壁は崩れていき、違いなどないという結論に達するのだと、考えていました。
ただそれはごく最近の一部の人の考え方で、人間はおそらく有史以来ずっと、なぜか「人間は他の動物とは違う!」と信じてきました。
確かに私たち人間は高度に知的で、他のほとんどの動物のできないことができます。道具を作り、自分たちの都合のいいように生活環境を作り変えることさえできます。地球で最も優秀な主として地球を代表しているとさえ感じている人も多いでしょう。
しかし、本質的に、それらの違いを生みだしているものは何に帰結するのか?
ブラックモアは、「それはミームである。」と説きます。
ミームは、長い遺伝子進化によって生まれた人間の祖先がある時「模倣する能力」を獲得した瞬間に生まれたとブラックモアは言います。この特殊な遺伝形質は、他の人間の行動をまねする能力でした。
ちょっと想像してみましょう。
たとえば、誰かが新しい効率的な狩りの方法を編み出したとします。模倣する能力がなければ、その方法は遺伝的には受け渡されないので、編み出した人が死ねば失われてしまいます。しかし模倣能力によって、その技は遺伝的手段によらず、人から人へとコピーされていきます。
コピーされるものは多岐にわたりました。
食べられる草を見分ける方法、疲れない歩き方、異性を引き付ける効果的な方法の数々・・・
それらの多くは遺伝子の生き残りにとっても有効でした。よって、模倣能力の高い個体はそうでない個体に遺伝子淘汰上有利であり、人間は進化の過程でますます模倣の上手な種族になっていきました。
≪土器・石器・鉄器≫、≪言語≫、≪農耕≫、≪共同体≫、≪自然崇拝≫、≪仲間意識≫、≪武器≫…
全て誰かが発明し、それがコピーされることで広まってきたものです。
≪王≫、≪武器≫、≪戦争≫、≪自己≫、≪自己正当化≫、≪民主主義≫、≪社会主義≫、≪幸福≫、≪善悪≫、≪貨幣≫、≪経済≫、≪哲学≫、≪法律≫、≪科学≫、≪市場原理≫、≪相対性理論≫、≪ガイア仮説≫、≪夢≫、≪希望≫…
これらはすべて、他の生き物が知らずに生きている、人間を人間たらしめているものたちです。
これらはすべて、情報です。書物や芸術、建造物などの形で表現されることもできますが、基本的には人間の脳の中にあり、人から人へ伝えられます。そして、そのコピーされることによって複製され、時に変異する情報を「ミーム」と呼ぶのであれば、
人間を人間たらしめているのはミームである、ということになります。
とすると、ミームがどうコピーされ、どう変異するかを理解すれば、人を人たらしめている全てがどうして今の形になっていて、これからどうなっていくのかということも、わかるのではないでしょうか。
私は、そう考えてミーム学の発展に非常に高い期待を寄せています。
次回は、ブラックモアがミーム論から導いた、新しい人間観についてお話します。
参考文献
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊
哲学する科学:心のウィルス、ミーム
リチャード・ブロディ著「ミーム 心を操るウィルス」の冒頭の言葉です。
これはそっくりそのまま、このメルマガにも当てはまります。
しかしそれは特別なことではありません。私たちが何かを見たり聞いたりする時、私たちは多かれ少なかれ何らかの影響を受け、少しずつ変異しているのです。
ブロディは、ミームを以下のように定義しています。
『ミームとは、人間の行動を司るコード(プログラム)である。』
つまり、人間の脳はある種のコンピュータのようなものであり、プログラムを追加、変更することでその振る舞いが変わる、ということを言っていると理解できます。
そして、脳の振る舞いの変化は、脳によって制御される人間の振る舞いの変化であり、人間の集団である社会の変化を引き起こします。
『私たちが持っている基本的で根本的な仮説が変わるとき、パラダイムシフトが起きるという』 ~リチャード・ブロディ
ブロディは、ミーム理論が「私たちの生活と文化に対する見方を根本から変えてしまう力を持っている。」と示唆しています。そして、なぜわざわざ見方を変える必要があるのか、ということについて、≪地球は平面ではなく球である≫という考え方や、≪宇宙が地球の周りをまわっているのではない≫という考え方を例に出し、「新しい見方の方が納得がいくから」「世の中の動き方を説明するのによりよい理論であるから。」と説明しています。
彼はこうも言っています。
『ミームはあなたの人生を動かすことができ、現実に動かしている。おそらくは、あなたが気が付いているよりもはるかに大きく動かしている。』
そのようにミーム学が私たち人間にとって、よりよく世界を理解するための強力な理論となることを信じつつ、ミームの人間に対する影響力をとても重く見た彼が著書で最も伝えたかったのは、以下のような事柄でした。
『私たちは、私たち自身をプログラムするミームを自ら、意識的に、選択する必要がある。そうしなければ、ミームを熟知した一部の人間が設計した人工的なミームによって、思い通りにプログラムされてしまうかもしれない。』
…背筋が寒くなるような話ですね。
しかし私は、このブロディの見解には100%同意はできません。
ブロディの主張で引っかかるのは、「悪いミームが広がるのを食い止めるために、よいミームを広めよう」という部分です。いったい誰が、ミームの善し悪しを決めるというのでしょう?ブロディは彼の著書に書かれていることが「よいミーム」であり、人心を操作する「悪いミーム」を駆逐するために共に闘おう!と言っています。
ただ、ミームに関する知識を持つことで、心に取り入れるミームの選択に変化が起きることは確かであり、そういった意味で彼の著作(およびこのメルマガ)は大きな力を持っていると言っていいと思います。
ミームの振る舞いは確かにウィルスに似たところがありますが、ウィルスと違う点は、「それそのものが私たちの心を構成していると考えられる」という点です。
そして、地球という天体上の生態系において遺伝子たちが生き残りゲームを繰り広げているのと同じように、60億の人間の脳を舞台にミームたちがやはり「生き残ったものが勝者」というルールに従ってゲームを繰り広げている、という説明が、もっとも真実に近いのではないか、と私は考えます。
私はブロディの著書によってミームを知り、「パラダイムシフト」を経験しました。
しかしその数ヶ月後、スーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしての私」を読んで、私の世界観はさらに大きく転換することになります。
次号は、そのブラックモアの語るミーム論の世界にご案内いたします。
参考文献
ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊
哲学する科学:文化の遺伝子、ミーム
今回は、ミームの哲学的な側面を探求する前に、まずは「ミームとは何か?」についてのお話です。
リチャード・ドーキンスが最初にこの言葉を作ったとき、それは「生物の遺伝子」に対比される「文化の遺伝子」として語られました。
ミームの「創造主」、ドーキンスによるミームの定義は以下のようなものです。
『ミームとは文化複製の単位であり、脳内にある情報の単位である』
つまり、私たち人間の形作る芸術、言語、風俗、科学など、ありとあらゆる文化はミームに還元でき、ミームの複製と伝達によって文化は広がってゆく、ということのようです。
ちょっとスケールが大きすぎて分かりにくいかもしれませんので、また身近な例で考えてみたいと思います。
→あなたは会社員で、最近メタボ体型になってきたとします。このままでは生活習慣病になる!という危機感から、電車通勤の区間内で≪毎日一駅歩く≫ことにしました。会社で周りの同僚にこの話をしたところ、1週間後には10名ほどが同じように一駅歩くようになりました。
上の例では≪毎日一駅歩く≫というのがミームの一例です。
これはあなたが作り出したミームです。そして、ミームは人から人へと、人間の模倣する能力によってコピーされていきます。
ミームとは脳内にある情報の単位である、とドーキンスは言っています。
ミームの複製メカニズムは、ある人が何かを思いつき、それを言動や行動で他の人から見える形に表し、まねをしたいと思った人がまねすることによって実現されます。
もちろん、どんなミームでもコピーされるというものではありません。
コピーされる度合いは、コピーすることによる(見掛け上の)メリットに比例すると考えられます。
なんとなくミームとはどんなものか、イメージしていただけたでしょうか?
「わかった気はするけど、≪毎日一駅歩く≫とかいう行動が広がることが、それほど人間の生活に大きな影響を与えるとは思えないなあ」という風に感じた方もいるかもしれませんね。
では、次はもう少し違うスケールの例を考えてみましょう。
→誰が最初に始めたかは、あまりにも昔のこと過ぎてその道の研究者にしかわからないかもしれません。しかし、私たち日本人の多くは毎年夏になると、家族で≪先祖の供養≫を行います。この習慣は、いつの頃かに日本中に広まり、さらに伝わった地域ごとに年月を経るに従って、生物の遺伝子のように変異してきました。いまでは、日本中で地域によってかなり異なったお盆の風習が見られます。
この≪お盆の先祖供養≫という習慣も、ミームの一種です。しかし、≪毎日一駅歩く≫というミームよりもはるかに古く、強力なミームです。
「強力なミーム」とは、コピーされる力が強いミームのことです。コピーされる力が強ければ、それだけ短期間で多くの人に伝わり、それは「常識」と呼ばれることになるでしょう。
こうしてかなりの数のコピーを獲得し、ある程度の大きさを持つ人間の集団内で共有されるようになった習慣は、「文化」と呼ばれることになります。そして、それを媒介しているのが「ミーム」という情報の断片である、というのが、ミーム学の基本的な考え方です。
≪戦争≫や≪宗教≫、≪思想≫、≪哲学≫、≪芸術≫、≪科学的思考法≫、≪新型インフルエンザの脅威≫、≪自民党はもうダメ≫、≪一生懸命はカッコ悪い≫、≪老いは醜い≫、≪働くことは素晴らしい≫、≪地球は温暖化に向かっている≫、…すべてミームです。(これらのミームの「善し悪し」や「正誤」についてはここでは論じていません。が、これらはすべて「強力なミーム」という共通点を持っています。)
ドーキンスは、「利己的な遺伝子」の中で、「人間は遺伝子の乗り物である」として、人間を含む生物と、遺伝子の主従関係を逆に描いて見せました。つまり、遺伝子こそ主役であり、人間をはじめとするあらゆる生物はみな、遺伝子が変異することによって作り出した、遺伝子が生き残るのに都合のよい乗り物にすぎない、ということです。がーーん(笑)
これは生物と遺伝子の主従関係の話ですが…
文化とミームの関係においても、複製の最小単位であるミームこそが主役であり、文化はそれによって派生している現象と考えると、ちょっと不思議な気分になってきます。
つまり、人間のあらゆる思想、哲学、信念、芸術作品、日々の習慣、私たちの心を駆動しているそれらは、ミームが生き残るために変異し、複製され、さらに変異していく過程で派生的に生まれている現象にすぎない。ミーム理論は暗に、こう言っているのです。
さあ、これを踏まえて、まずはブロディの「心のウィルス」説を次号では見ていきましょう。
参考文献
ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊
哲学する科学:ミームを知らないの?
彼はある日マイクロソフト社のカフェテリアで、彼の尊敬する同僚のチャールズ・シモニやグレッグ・カスニックらと食事をしながら、なぜ無能で腐敗した政治家たちが当選し続けるのか、といったことを話していた。その話の流れの中で、チャールズ・シモニが突然こういった。
「よいミームだからだ。すぐれたミームだよ」
「すぐれた何だって?」とリチャード。
「ミームだよ。ミーーーーム!」と、チャールズ。
カスニックも言った。
「ミームを知らないのか?」
…学識も高くリスペクトする仲間たちが、知っていて当たり前と思っている、何やらとても重要らしい言葉。
こうして、リチャード・ブロディはミームの研究を始めることになる。
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ミームを最初に提唱したのはイギリスの動物行動学者、リチャード・ドーキンス。有名な著書、「利己的な遺伝子」の中でのことです。
「利己的な遺伝子」については既にかなり有名なのでここで詳細は書きませんが、ダーウィンの進化論について新たな見方を提示した本です。
すなわち、「生物の進化のために遺伝子が存在する」のではなく、「遺伝子が進化するために生物が存在する」という考え方で、生物学の世界にコペルニクス的転回をもらたしました。
そしてこの本の中で彼は、「文化」にも生態系にとっての遺伝子に相当する陰の主役が存在することを示唆しました。そしてそれに遺伝子(Gene)とギリシャ語の「模倣されるもの(Memene)」を掛け合わせて、「ミーム(Meme)」という名前を付けました。
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ブロディはその後ミームについて研究し、「ミーム ~心を操るウィルス」という本を書きました。
(もともとコンピュータ・ソフトウェアの開発会社でソフトウェア技術者として働いていた彼ですが、いまや彼の業績と主張は科学者たちの間でも一定の評価を得ています。)
その著書の中で彼は、以下のようなことを警告しています。
『私たちはミームにプログラムされている。』
『私たちはよいミームを選択して自分自身をプログラムしなければならない。』
『人類は、よりよいミームを選択することで、よりよい未来をつかみ取ることができる。』
彼の主張については後にもう少し詳しく見ていこうと思います。
蛇足ですが、私はずっと「ミーム」という言葉だけは聞いたことがあり、気になっていました。そして最初に読んだ、ミームについて書かれた本がこのブロディの著書でした。とても読みやすく、ミームという概念をわかりやすく説明していて、とても感銘を受けました。
しかし、その後読んだ別のミーム関連の書籍では、ブロディのものとはかなり違った主張が展開されており、私はそちらにより深い感銘を受けました。(実際は感銘などという言葉が適当とは思えない、強い衝撃と激しい興奮をも覚えました。)
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ともあれ、今回から本メルマガは新シリーズに突入し、「ミーム」という仮説が私たちの世界に対する認識にどのような変化を引き起こすのかについて考えてみたいと思います。
いままでこのメルマガでは、「私たち人間は、脳の中の無意識の領域において、その行動のほとんどを決定する生き物である。」「意識は3000年程度前に誕生したに過ぎず、それ以前の人間は意識なしで生きていた(かも?)。」「人間の意識は実は記憶の補助をするだけのプログラムである。」「<私>というのは意識が体験を記憶するために脳が生み出している幻想である。」といった仮説をご紹介してきました。
これまでご紹介した諸説で既に少なからぬ衝撃を受けられた方もいるかもしれません。
例えば、「人間は自らの行動を意識的に決めている」という「仮説」が、「人間の意識はどうやら大したことはしておらず、無意識がほとんど決めているらしい」という「仮説」で上書きされたとき、もしかするとあなたは軽いめまいを感じ、世界や人間や自分を見る目が多かれ少なかれ変わったのではないでしょうか?
「ミーム」は「文化の遺伝子」としてドーキンスに提唱された概念ですが、その後多くの研究者によって、心を説明する理論としても取り上げられ、研究されています。
このメルマガ『哲学する科学』では、ミーム概念の哲学的な影響について、特に掘り下げてみたいと思います。
それによって、私たちの、私たち自身についての理解がさらに変容することになるでしょう。
参考文献
ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊
哲学する科学:無題
本メルマガも創刊からはや2か月、今号で17号目を数えます。
創刊号から7号ほどでは、「私は死んだらどうなる?」という問いから出発し、あるロボット工学者の学説から、人間の脳の構造とそこから導き出される<私>の正体について迫り、人間の存在について新しい視点をご紹介できたと思っています。
8号から16号までは、様々な科学者や哲学者が「自由意思は存在しない」と言っていることについて、実際にいくつかの学説をご紹介し、「人が何かを決断するとはどういうことか」といったことについて、私なりの考えも多少述べさせていただきました。
次号から新章を始めようと思っていますが、その前にすこし、このメルマガの存在意義について、私がどう考えているかについてお話させてください。
子供の頃、少年向け科学雑誌などに触発された私は「いつか科学が世界のすべてを解き明かす。そして自分はそれを知ることになる。」と、漠然と信じていました。そして、未来は素晴らしいものに違いない、と。
しかし実際には、科学は未だ発展途上で、私は道に迷った子供のように、自分の人生にすらよい答えを見つけられていません。
一体私は、なぜここにいるのだろう。
どういう人生を歩めばいいのだろう。
あなたなら、このように追い詰められたとき、どうしますか?
私は、残念ながら特定の宗教を持ちませんし、人生の師といえるような人とも、巡り合えていません。哲学の入門書的なものを読んでみようとしましたが、あまり心に響きませんでした。
しかし科学の限界を知りつつも、最新の科学については未だに興味は尽きず、そして科学者たちのいくつかの学説、いくつかの言葉の中に、自分の抱えている問いへの答えを見たと感じ、前へ進む力を与えてもらったと感じています。
周りを見渡してみると、私たち日本人の心は拠りどころを失い、求心力のある政治家もおらず、多くの人が以前の私同様に途方に暮れて、またはただ流されるように日々を過ごしているように見えました。
私たち日本人は無宗教の人が多く、それも大きな要因と思えるのですが、わたちと同じように、確固たる心の拠りどころを持たず、いざという時に途方に暮れてしまう人に、宗教に帰依するのにも抵抗があり、よい師との出会いにも恵まれない人に、私が感じたある種の救いをおすそ分けできたら…ささやかながら、それが私がこのメルマガを書いている動機であり、書き続ける意義だと思っているのです。
もちろん、全く人生に迷ってなどいないし、単になんとなく面白いから読んでくれている、という方も大歓迎です。
まあ、私のモティベーションはそんなところからきていて、だから何の得にもならなそうなこんなメルマガを奇特にも書いているんですよー、という、何の役にも立たないトリヴィアとして笑い飛ばしてくれてよいです。
ただ私はそんな気持ちでこれからも書いていきますし、書きながら私も少しずつ変わっていきます。
願わくば私のその変化がよい方向のものでありますように。
そして読者の皆様にも、良い変化が訪れますように。
(誰に祈ってるんだろう?(笑))
哲学する科学:「意識」「無意識」「世界」
ここ数号では、意識と無意識についての学説をいくつかご紹介することで、私たち人間の自由意思はどこにあるのか、という問題に迫ってみました。
結論は・・・未だ科学者たちが追求している最中ですが、わかってきていることを簡単にまとめてみると、
私たちは自分たちを「意識ある存在」であると感じていて、その「意識ある自分が自身の行動を決定している」と考えがちですが、実は「意識」はごくわずかなことしか同時に把握できない。
実際にほとんどのことを把握し、決断しているのは私たちの無意識の部分であるという証拠も多く見つかってきている。私たちの意識は、無意識が決めたことをさも自分がやったことのように、<私>という主人公の物語として記録しているだけである、という意見もある。
「私は私である」と考える「意識(自意識)」が人間に芽生えたのは、ほんの3000年前である、という説もある。それ以前の世界には人々には意識はなく、心の裡から聞こえる<神>の声に従って活動していたという。
・・・はたして、私たちには自由意思はないのでしょうか?
「意識」と「無意識」を分けて考え、さらに「私=意識」と考えると、答えは「Yes」です。
私たち(意識)は得体のしれない無意識によって動かされている人間という生き物の中にあり、自分では全く制御不能なこの存在が活動するのを眺め、自分がやったことと錯覚して日々を過ごしている、ということになります。
しかし、実は「意識」と「無意識」を分けることはできず、境目のない一つの実体であるとしたら、どうでしょう?
3000年以前の人間たちは誰一人、自分と世界の間に境界線を持たず、世界と一体となって暮らしていたと仮定してみましょう。
その頃の私たちの脳も構造的には今の私たちと変わらず、私たちの脳はある種のコンピュータのようなものとみなすことができ、生来の配線の上に、後天的な学習で無数のプログラムが作られていき、それらが協調して動作することで、私たちは考え、泣き、笑い、怒り、悩み、感動し、また何かを学習し、少しずつ変化しながら、生き続けていたとします。
しかしある時、私たちの中の一人が、自分と世界を区別するという発想を得て、自分に「私」というラベルをつけ、世界とは別のものと定義したとします。
その考え方はなかなかに面白く、それを知る人に時として大きな喜びをもたらしました。それは人から人に広まり、世代を超えて伝わり、やがて、世界中のほとんどすべての人の「心」に入り込み、誰もが「私は私だ」と考えるようになりました。
その考え方はしかし、私たちを不幸にもしました。自他を比べ、優劣を必要以上に気にし、自らの属する世界そのものすらを敵と考えさせることすらあります。
こうして、私たちは「私は私だ。しかし、私とは…いったい何なのだ?」という答えのない問いに向き合うことになったのです。
・・・これは、あくまで私の妄想ですが(笑)、
しかし、本当は意識と無意識は分けることはできず、無意識は体とつながり、体は世界とつながっているとしたら、、、私たちと世界もまた、分けることはできない、と考えることもできます。
19世紀の物理学者で、電気と磁気を統合する電磁気学の基礎を作った物理学者、マクスウェルは次のような言葉を残しているそうです。
「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身より大いなる何者かによって成されたような気がする」
マクスウェルの言った「大いなる何者か」とは、、、
≪それは無意識の領域で膨大な計算をこなし続けている、ニューラルネットワークの中の無数のプログラムたちである≫
ということもできるでしょう。ほんの少し前まで、実際私はこのように考えていました。しかし、
≪私の中の大いなる何者か、それは宇宙そのものである≫
ということも、ひょっとしたらありえるのかな…と、考え始めています。
21世紀の科学が、私がまた宇宙と完全に一つになるそのときまでに、もう少しだけ真実を私に見せてくれますように。
参考文献
ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊
