2010年1月22日金曜日

哲学する科学:ミーム工学が開くヒトの新時代

『工学(こうがく、engineering)は、科学、特に自然科学の知見を利用して、人間の利益となるような技術を開発し、製品・製法などを発明することを主な研究目的とする学問の総称である。』 ~ウィキペディア

みなさん、一ヶ月近くのご無沙汰でした。いかがお過ごしでしょうか。

私の方は、少し思うところがあり、用意していたメルマガの原稿をいったん破棄して、別のものをこうして書いています。
これはまだ私が漠然と考えていることでしかないのですが、今後、進め方によっては思わぬ発展を見せる可能性もあるのではないかと考えています。

以下、私がここしばらく考えていたことを書きます。

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ミームを操作する学問体系として、「ミーム工学」というものを構築することを提唱したい。

<ミーム工学の必要性>

「ミームは遺伝子に対するDNAのような実態がつかめないから科学の対象とならない」という意見があるが、ヒトが世代を超えて築き上げてきた文明、思想、社会システムなどを見れば、遺伝的経路に拠らないある種の情報が人から人へ伝わり、それが人々の行動に多大な影響を与えているのは明白である。

そしてそれは遺伝子同様、自然選択によって進化しているように見える。しかも、遺伝子とは比較にならない速度で。

(その「情報」をミームと呼ぶかどうかはともかく)これを研究し制御することが、今後の人類の運命に多大な影響を与えるということについて、私は確信を深めている。

そのためにミーム工学(名前が不適切だというなら別の名前でも構わない)というミーム複合体を生みだして広めることは、脳というハードウェアの研究によりミームの正体が解明されることを待たずして、21世紀に人類がもっとも注力すべきことのひとつであろう、と考える。

<ミーム工学とは何か>

まだ具体化しているものではないが、ミームのメカニズムの理解のあるなしに関わらず、ミームの性質を実験などから解明し、その本質的役割と、制御の方法を確立する学問であると定義したい。

たとえば、「外部からある人に入った情報がどのようにその人の行動に影響を与えるのか」「その情報は、その人の中でどのように変異しうるのか、またどのように他の人にコピーされうるのか」「どのような情報が効果的に人を動かすのか」「どのような情報がヒトの社会の中で効果的に増殖するのか」などは、ミームという実態をつかんでいなくても、実験からある程度検証が可能なはずである。

より具体的には、

人から人に直接または間接に伝わる「AをBしろ」または「Xせよ」といったシンプルな命令およびそれを補強する情報の構造を、自然言語に依存しない形で記述する方法を確立することが考えられる。
また、それを自然言語に翻訳し、実際に社会の中に放ってどのように拡散・変異または消滅していくか実験するといったことが考えられる。

*これはブロディの言う「設計ミーム」または「マインドウィルス」をばら撒く恐ろしい行為のように聞こえるかもしれない。
*しかしすでに多くの国の政府や企業がマスメディアなどを通じて日常的に実行していることであると思われる。
*私は、一部の人たちの間ではたぶん、ミーム工学的なものはある程度確立されていて、私たち一般市民はそれに対して無防備な存在なのかもしれないとも考えている。
*もし私が突然不慮の死を遂げたら、それはそうした特権階級が、自分たちの権益を守るために必要なことをしたということなのだろう。…と、これ以上書くとただの陰謀マニアと取られるのでやめておく^ー^)

ともあれ、「科学的良心」を持って事に当たれば、それは原爆を作るのと同義ではなく、一部の人しか持たない知識を一般化して広く知らしめることで、搾取と不公平を取り除くことにもつながる。小学校で「人権」と一緒に「ミーム」を教える日も来るかもしれない。

・・・「工学」とは、科学的知見を利用して、人々の役に立つ技術や製品やサービスを開発・発明する学問だそうである。

私たちが人間であるということは、遺伝子が作った生命というシステムであると同時に、そのシステムのもっとも複雑な産物である脳という生体コンピュータの上で日々形を変えていく情報のかたまりでもあるということである。

その情報とそれが生み出すヒトやヒトの集団の活動が、外から与えられる情報でどう変化するか。
その法則をとらえた上で、そのヒトの集団自体にとって、その知識をどう利用すると、より益となるか。
ヒトやヒトの社会、文化は、情報という側面からみると、どのようにとらえることができるのか。
その知識を利用して、社会は文化をどう変異・発展させられるのか。また、どう変異・発展させるべきなのか。

ミーム工学という学問は、

「私たち人類が、私たち自身とそれを駆動する仕組みを解明し常識化することで、人類全体を次のステージに登らせること」

を可能にすると考える。

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真面目に、もっと勉強して、この分野を切り開くことができたらどんなに素晴らしいだろう…そんな風に考えています。

皆様の率直なご意見をお聞かせいただければ幸いです。

 守本憲一

哲学する科学:生まれ変わり続ける私

少し前になりますが、NHKの番組で哲学者の清水哲郎さんという人が対談番組にでていたのですが、番組ホストを務める爆笑問題の太田さんが、こんなことをいったのが印象的でした。

「人間っていうのは毎日生まれ変わっていると思う。昨日の俺と今日の俺は、もう別の人なんじゃないかってね。」

確かに、私たちは日々、外界から入ってくる情報を取り込み、時々刻々と変わり続けています。

昨日の私と、今日の私。

その差は微々たるものかもしれないけど、確かに違う。


奇しくも、いま私が読んでいる小説も、同じ思いを抱かせるものがあります。


「君が僕を見つけた日」(オードリー・ニッフェネガー作)の主人公は、ストレスを感じると、意に反してタイムトラベルをしてしまいます。


彼はその人生の中で何度となく時間を超え、過去や未来で自分自身や、もう一人の主人公である女性と交流します。

読んでいると、「子供の頃の自分は現在の自分とは別の人間かもな」とか、「出会った頃のあの人ともう一度会ってみたいな」という気持ちが沸き起こってきます。

なぜなら、自分も、大切なあの人も、日々変わり続けているから。


考えてみると、変わり続けているのは、脳の中の情報の構成だけではありません。

私たちの体を構成する全ての細胞は、日々生成死滅を繰り返し、新しいものに取って変わられています。

一人の人間の体を構成する細胞は、6~7年で全て新しいものに入れ替わると言われています。

つまり、7年後のあなたの体は、もう全く新しいものといっても過言ではないのです。


私たちの体を構成する物質は、私たちが生まれてから死ぬまでの間でさえ、どんどん入れ替わっていく。

つまり、「私たちの本質は、物質ではない」ということにならないでしょうか。

では、私たちは一体何からできているというのでしょう。


以前、宇宙の本質は物質ではなく情報であると考えられる、というお話をしました。

私たち人間もまた、生きている短い期間においてさえ、物質的には不変ではありません。

ならばその本質は、遺伝子およびそれが定義する細胞の機能や配列、

そして脳の中に蓄えられ行動を規定するミームとそれが引き起こす行動といった「情報」である、

と私は考えます。


生命の本質もまた情報であるなら、

そして人生の本質は、宇宙の情報処理の一要素に過ぎないなら、

私は何を悩んでいたのだろう?

と、ふっきれたりもします。


しかしその一方で、人生が単なる"計算"の一部なら、悩みが減る分、喜びも割り引かれるのでは?

理解不能な計算の一部に過ぎない人生に意味などないのでは?

そんな思いに囚われることも、正直あるのですが。


…そんな時私は、こんな風に考えます。



人の一生は、宇宙全体の壮大な計算の一部である。

そして、宇宙全体の計算の目的が人智を超えていて、そこから人生の目的が導けないとしても、、、

本質的には情報である私たちの、宇宙全体からみればつかの間の計算に過ぎない人生において…


「喜びを感じることができる」というのは、奇跡と呼ぶべきものなのではないかと。

~~~

毎秒、毎分、毎時、毎日。

毎週、毎月、毎期、毎年。


私たちは、死ぬまでもなく、絶え間なく生まれ変わり続けています。


もうすぐ2010年。

今年の経験した、すべての良いこと、悪いことは、「去年存在した別人」の体験となります。


明日、来週、来年、10年後、そして、人生の最後に・・・

生まれ変わり続ける「私」は、どんな顔を見せてくれるのでしょう。