少し前になりますが、NHKの番組で哲学者の清水哲郎さんという人が対談番組にでていたのですが、番組ホストを務める爆笑問題の太田さんが、こんなことをいったのが印象的でした。
「人間っていうのは毎日生まれ変わっていると思う。昨日の俺と今日の俺は、もう別の人なんじゃないかってね。」
確かに、私たちは日々、外界から入ってくる情報を取り込み、時々刻々と変わり続けています。
昨日の私と、今日の私。
その差は微々たるものかもしれないけど、確かに違う。
奇しくも、いま私が読んでいる小説も、同じ思いを抱かせるものがあります。
「君が僕を見つけた日」(オードリー・ニッフェネガー作)の主人公は、ストレスを感じると、意に反してタイムトラベルをしてしまいます。
彼はその人生の中で何度となく時間を超え、過去や未来で自分自身や、もう一人の主人公である女性と交流します。
読んでいると、「子供の頃の自分は現在の自分とは別の人間かもな」とか、「出会った頃のあの人ともう一度会ってみたいな」という気持ちが沸き起こってきます。
なぜなら、自分も、大切なあの人も、日々変わり続けているから。
考えてみると、変わり続けているのは、脳の中の情報の構成だけではありません。
私たちの体を構成する全ての細胞は、日々生成死滅を繰り返し、新しいものに取って変わられています。
一人の人間の体を構成する細胞は、6~7年で全て新しいものに入れ替わると言われています。
つまり、7年後のあなたの体は、もう全く新しいものといっても過言ではないのです。
私たちの体を構成する物質は、私たちが生まれてから死ぬまでの間でさえ、どんどん入れ替わっていく。
つまり、「私たちの本質は、物質ではない」ということにならないでしょうか。
では、私たちは一体何からできているというのでしょう。
以前、宇宙の本質は物質ではなく情報であると考えられる、というお話をしました。
私たち人間もまた、生きている短い期間においてさえ、物質的には不変ではありません。
ならばその本質は、遺伝子およびそれが定義する細胞の機能や配列、
そして脳の中に蓄えられ行動を規定するミームとそれが引き起こす行動といった「情報」である、
と私は考えます。
生命の本質もまた情報であるなら、
そして人生の本質は、宇宙の情報処理の一要素に過ぎないなら、
私は何を悩んでいたのだろう?
と、ふっきれたりもします。
しかしその一方で、人生が単なる"計算"の一部なら、悩みが減る分、喜びも割り引かれるのでは?
理解不能な計算の一部に過ぎない人生に意味などないのでは?
そんな思いに囚われることも、正直あるのですが。
…そんな時私は、こんな風に考えます。
人の一生は、宇宙全体の壮大な計算の一部である。
そして、宇宙全体の計算の目的が人智を超えていて、そこから人生の目的が導けないとしても、、、
本質的には情報である私たちの、宇宙全体からみればつかの間の計算に過ぎない人生において…
「喜びを感じることができる」というのは、奇跡と呼ぶべきものなのではないかと。
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毎秒、毎分、毎時、毎日。
毎週、毎月、毎期、毎年。
私たちは、死ぬまでもなく、絶え間なく生まれ変わり続けています。
もうすぐ2010年。
今年の経験した、すべての良いこと、悪いことは、「去年存在した別人」の体験となります。
明日、来週、来年、10年後、そして、人生の最後に・・・
生まれ変わり続ける「私」は、どんな顔を見せてくれるのでしょう。
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