2011年4月10日日曜日

哲学する科学:震災に未来を思う

東日本大震災の発生から一ヶ月が経過しようとしています。

読者の方の中には直接に被災された方もいらっしゃるかもしれないので発行を少しためらいましたが、私の持てるささやかな影響力を行使して、少しでも世界にポジティブなインパクトを与えられたらという思いで書いたものをお届けします。

震災を超えて、新しいニッポンが立ち上がってくることを祈って。

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大震災で多くの人命が失われた。過剰な自粛の経済への悪影響を懸念する声もあるが、死者たちに哀悼の意を表し、喪に服すのは悪いことではないし、そういう気持ちは失ってはいけないだろう。義援金、救援物資など、助け合いの精神も広がっている。

原発も壊れた。建設中や稼働中のものも含め、大きな見直しの流れが生まれつつある。結果として当面の電力不足は必至であり経済への負の影響が懸念されている一方で、それを受け入れ節電を心がけるだけにとどまらず、これまでの生き方を見つめ直そうという機運も生まれてきている。

私たち人間は、外部環境から入ってくる情報を受け取り、それによって少しずつ変わる存在である。

何が変わるのかといえば、”脳内の情報の構成”と、”行動”が変化するのだ。
そして私たちの”行動”は、他者にとっての環境となり、他者の変化を促す。
ネットやマスメディアに溢れている情報は、我々の行動が生み出している。
そしてその情報が、私たちを変えていく。

私たち一人ひとりの”行動”と”環境”の相互作用は、生まれてから死ぬまで続く。
その無限の反復による継続的変化は、人間の行動に寄らない外部事象にも影響される。
そして今回の大震災のような大きな事件が私たちに与えるインパクトは計り知れない。

今後数年、もしかしたら数十年、私たちはいろいろなことを我慢しなくてはならないだろう。
しかしこの恐るべき苦況が私たちに変革を促し、そこから生まれた新たな思考や行動の様式が、世界を未来へと導いていくかもしれない。

これから起こっていく変化の全てを言い当てることは誰にもできないが、大きな変化が起きることは間違いない。
そして、現状すでに起きつつある変化から多少の予測をしてみることはできる。

震災の影響によって、日本に済む私たちの心の中では以下のような考え方が活性化されているように見受けられる。

→被災者への共感と、助け合いの意識
→浪費への反省と、節約の意識

思えば、バブル景気の時代は消費(浪費)こそ正義といった風潮(共有された思考)があった。
バブル崩壊後、私たちのそうした思考は否定されたものの、それに変わる価値観を見出せずに来たように思う。

今、震災によって私たちは、立ち止まって考えることを余儀なくされている。これは、見方を変えればとても大きなチャンスだ。

実際に、ついこの間まで「もっと作ってもっと買えばいい、たくさん稼いでたくさん使えばいい」と考えていた人たちが、資源の有限性や代替エネルギーについて思いを巡らせている。

ライバルに勝ち、より多くの可処分所得を得ることに血道を上げていたものが、電力の供給低下によって避けられない経済の失速を受け入れるばかりか、自分の持っているものを他人に分け与えている。そして現行の経済システムに改めて疑問を感じている。

古来から日本人は、思いやりやもてなしの心に優れていたという。それは、私たちが代々受け継いできた、大切な心の遺伝子である。
第二次大戦後、主に米国から入ってきた効率と物質的豊かさを重んじる考え方がそれらを上書きしてきたが、私たちの中にはまだ先祖の遺伝子が息づいている。

そんな私たちの心の遺伝子(先祖の魂といってもいい)がこの危機という特大の環境的変化によって活性化され、それが”今”に適応したとき、何が起きるだろうか?

私は、100年後の歴史の教科書に以下のような説明が載ったとしても驚かない。

〜東日本大震災後の日本は、経済の悪化の中で価値観を転換、物質的豊かさより精神的な豊かさを追求する人のあり方を世界に示した〜
〜グローバルな経済競争という終わりなきゲームから距離を置き、個人の欲を原動力とする消費社会からの脱却を目指した〜
〜原子力というもろ刃の剣を捨て、宇宙太陽光発電というクリーンなエネルギーの開発に国際的なリーダーシップを発揮した〜
〜過去の負の遺産を負うことなく将来の世代のために働くことができる今の世界の枠組みを作ったのは、当時の日本人たちであると言っても過言ではない〜

もちろん、未来における”現実”はおそらくもう少し複雑だとは思う。
経済至上主義が強い力を持つ今の世界において、利己主義と強欲を完全に払拭することは難しい。

しかし、希望あふれる未来を期待させる空気が今、確かにある。
それを感じ取り、それに従って行動する人が多ければ多いほど、実際にそうなる可能性は高まる。

未来はいつだって、”今を生きる”私たちが創りだすのだ。

巨大な悲しみの中から素晴らしい希望の芽を見つけ、それぞれの場所で育てていこうではありませんか。

2011年1月3日月曜日

哲学する科学:人工生命元年の終わりに寄せて

早いもので、2010年も終わろうとしています。

1984年に作られた映画<2010年>では、太古の昔に人類の祖先を文明に目覚めさせた存在が、今度は木星の衛星エウロパに芽生えた知的生命体を進化させるために木星を太陽化させた年が西暦2010年でした・・・が、私たちの"現実"においてはそのような出来事は起きませんでした。

その代わりに、遺伝子工学の発展で人工生命を生み出せることが証明された年となりました。
ニュースでも取り上げられたのでご存じの方も多いでしょう。
ヒトゲノムを解析したクレイグ・ベンター博士のチームが、今度はコンピュータ上で編集した遺伝情報を細菌の細胞に書き込み、生命として活動させることに成功したのです。

ベンター博士は講演会で、「<生命とは何か>ということについて、私たちの理解が先に進められることになる」と語り、また今回の成果の応用として、「人間によって遺伝子をデザインされた生物(細菌など)を使って、二酸化炭素から石油に変わるエネルギーを生み出し、エネルギー産業を一変させることが出来る」というようなことを、さらっと説明してくれちゃっています。

生物の機能を遺伝子レベルで詳細に操作できるようになると、農作物に手を加えて栄養価や生産性を高めたりすることで食料不足を改善したり、体内に入って免疫力を高めたり病気を直したりする細菌やウィルスをつくることも可能でしょう。

問題の(?)講演会はこちらで見ることができます。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/craig_venter_is_on_the_verge_of_creating_synthetic_life.html

哺乳類のような複雑な生命体を直接操作することはまだ難しいということですが、そう遠くない将来、私たち"人類の叡智"は自らの身体さえも思い通りに改造していくことでしょう。

小説<2001年宇宙の旅>の作者、アーサー・C・クラークが同著の前書きで「事実は空想よりも常に、遥かに異様であるにちがいない」と書いていましたが、まさにその通りの様相を呈してきています。


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さて、ベンター博士のチームが証明したのは、突き詰めれば「細胞はコンピュータのハードウェアのようなものであり、遺伝情報はコンピュータのソフトウェアのようなものである」ということです。

どういうことかというと、例えばある細胞に改変したDNAをインストールすると、そのソフトウェア(DNA内の情報)に従って動作し、やがてはハードウェア自身をソフトウェアの支持に従って書き換えてしまうということです。

人間が作った道具としての"コンピュータ"と違うのは、ハードウェアを作るのもソフトウェアであるということです。

私たちの身体を構成する60兆もの細胞の一つ一つは、たったひとつの受精卵の中にある一揃いの遺伝情報に書かれているある種の指令によって作られます。

改めて考えてみると信じられない気もしますが、細胞膜はどんなふうに作り、どの様に細胞を分裂させ、どんなタイプの細胞にいつどのように別れていくか…そうしたことは全て遺伝子に書かれているというわけです。スゴイですね。

で、その受精卵もまた、女性の体の発達の結果作られる卵細胞(卵子)という細胞のひとつに、男性の身体の発達の結果作られる精細胞(精子)が入り込み、それらの遺伝情報が合わさることで作られるわけです。

そしてそれを実現するための人の行動もまた、(ある程度までは)遺伝子の指令だというのですから…まったく、ねえ。

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で、このように考えてくると、ソフトウェアである遺伝情報と、ハードウェアである細胞のどちらが先に生まれたのかという疑問も生じてきます。

生命が誕生したと言われる36億年前の地球については、当時の状況を知る手がかりが非常に限られていて、最初の生命がどの様に生まれたかということについてはまだはっきりと分かっていませんが、多くの科学者が仮説を立てています。

生物学者リチャード・ドーキンスは、まず自らを複製する遺伝子が生まれ、その遺伝子が進化して、細胞という鎧をまとうようになったというような仮説を「利己的な遺伝子」の中で語っています。

「はじめに遺伝子ありき」

生命の本質は遺伝子であり、私たちヒトを含む生き物の身体は遺伝子の乗り物に過ぎないと説くドーキンス博士らしいですね。

でも考えてみると、最初に体だけあっても自分を複製することはできなかったでしょうから、少なくとも遺伝子が最初にあっただろうことには疑う余地はあまりないように思います。

ただし私は、「遺伝子が先に生まれたから、私たちの正体は遺伝子である」と結論づけるつもりはありませんが。

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「私たちの身体は、遺伝子を守り、受け渡すための入れ物であり、乗り物である。」

このドーキンスの考え方に異を唱えるつもりはありません。

しかし、ドーキンスのこの考え方自体も、ダーウィンの考え方を発展させたものであることを考えると、こうした考え方(思想)のようなものは、遺伝子によって受け渡されるものでないことは間違いなさそうです。

それは、ダーウィンの著書や論文によって他の人間の脳内に(少しずつ異なる)思想の複製が生まれ、複製を持った人間の一人であるドーキンスの脳の中で変異することで誕生したものです。

<ミーム>と呼ばれる、思想や文化を運ぶ遺伝子以外の自らを複製する情報の断片(自己複製子)について最初に提唱したのもまたドーキンスであるということは、とても興味深い事実です。

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ベンター博士の研究もまた、先人たちが残したミームを受け継ぎ、それを元にして生み出されたものです。メンデルが<遺伝学>というミームを生み出し、ワトソンとクリックがDNAを発見し、<遺伝子工学>が生み出されなければ、「人工細菌」も生まれなかったでしょう。

つまり、遺伝子を人工的に操作するということは、「ミームが遺伝子を支配し始めた」と見ることもできます。

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ただし、私たち(ミームたち)は注意しなければなりません。

私たちの身体を含む地球の生態系は、数十億年という気の遠くなる歳月をかけて作られてきたものです。そして、私たちはそのすべてを理解しているわけではありません。

いまある地球上の生物圏の多様性と美しさに、操作を加えるということに関しては慎重の上にも慎重に行う必要があるでしょう。

しかし私たちの本性として、世界に干渉する新しい方法を生み出し、それを実際に活用するということを止めることはできないとも思います。

ミームは複製され、増殖し、変異するという性質を持っているのですから。

ベンター博士が生み出した新たなミームは、やがて世界に大きなインパクトを与えることでしょう。

それがこれからどのように広がり、どのように変異し、どのように世界を変えていくのか。

そう、ミームには世界を変える力があります。

<環境保護>というミームは、世界のあり方を大きく変えようとしています。

ベンター博士のミームは、<環境保護>や<生命の尊厳>といった強力なミームたちと競合し合い、しのぎを削り合いながら、世界を変えていくことでしょう。

そして、それは同時に私たちそれぞれに向かって、

Q:生命とは何か

Q:ヒトとは何か

Q:人類とはなにか

といったことを問い直してきます。

2010年の終わり、カウントダウンなどしながら、新しい年の始まりに向けて、こうしたことを考えてみるのもいいのではないでしょうか。

なぜって、私たち一人ひとりのそうした思索の積み重ねもまた、積み重なれば世界を変える重要な要素となっていくのですから。

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今年もありがとうございました。来年が皆様にとってよい年となりますように。ハッピーニューイヤー!