2010年10月8日金曜日

哲学する科学:プロパガンダと影の支配者たち

皆様、大変ご無沙汰いたしました。私は今インドを放浪中で、今ダラムサラにいます。なかなかメルマガを発行できず、申し訳ありません。ただ、発行頻度よりもしっかりした内容をお届けすることを念頭にこれからも続けてまいりますので、今後ともどうかよろしくお引き立ての程お願い申し上げます。

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私は以前、ミームを使ったエンジニアリング(ミーム工学)を確立すれば、21世紀において個人や社会の在り方を変革する原動力となるのではないかと書きました。今もその信念は変わりません。(詳しくはバックナンバー「ミーム工学が拓くヒトの新時代」をご参照ください)

最近は、私の思い描くミーム工学と近い既存の学問体系について勉強しています。心理学、生物学、文化人類学、計算機科学、情報工学、認知科学・・・
そしてこれらを学んだ上で、やはりミーム工学が必要だと感じたならその端緒を開くための活動を開始しようと考えています。

ところで、私がミーム工学について書いた直後に、"それに近いものなら既にある"と教えてくれた読者の方がいらっしゃいました。
今回はその方が教えてくれた「プロパガンダ」というものについて、私なりの考えをお話してみたいと思います。

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あなたは、プロパガンダという言葉で何を思い浮かべますか?

ウィキペディアの記事から抜粋すると・・・

『プロパガンダ (propaganda) は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為である。
通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、カトリック教会の布教聖省 (Congregatio de Propaganda Fide) の名称である。ラテン語の propagare(繁殖させる)に由来する。』

なんとなく、マインドコントロール的な意味合いが強いネガティブなものとして説明されていますね。

しかしプロパガンダを生み出した男は、そうは思っていなかったようです。

20世紀の初め頃に活躍した「プロパガンディスト」エドワーズ・バーネイズは、近代広告業界の父と呼ばれ、「プロパガンダ教本 (原題は"Propaganda")」という本を著しました。

バーネイズは、プロパガンダという名で大衆の心理を効果的に操作する手法は彼が確立したものであるといいます。

そして彼がプロパガンダについての本を書いたのは、ナチスドイツによるプロパガンダ技術の悪用により、プロパガンダという言葉に染み付いてしまったネガティブなイメージを払拭するためだと言われています。

バーネイズはこんな風に書いています。『プロパガンダは大衆説得の技術』であり、民主主義の世界的な普及とともに、民意を効率的に束ね、社会的に重要なことを達成するために必要不可欠なものとして生まれてきたものであると。

プロパガンダの技術を使えば、大衆を思い通りにコントロール出来るといいます。

身近でわかり易い例を使ってご説明しましょう。

数年前打ち切りになった「あるある大事典」というテレビ番組がありましたが、この番組で紹介される商品は必ず売れるという評判でした。

「あるある大事典」が行っていたことは、以下のようにまとめることができます。

ある企業が売り込みたい商品を持ってくる。番組制作者は、その商品を以下にして売り込むかについてのシナリオを書き、それを裏打ちするような研究をしている学者などを使って権威付けする。

結果として私たち大衆は、「なるほどー、納豆はそんな風に体にいいんだ!明日から毎日食べようっと」などと思ったりする(プログラムされる)わけです。

あるある大事典は、最後には研究結果などを捏造して番組は打ち切りになってしまいましたが、そういうルール違反を犯さなければ、いまでも毎週何かについての私たちの購買意欲を刺激し続けていたことでしょう。

そして、「あるある」が使っていた手法は、正にバーネイズが書いていたことそのものでした。

*=*=*

バーネイズは、「プロパガンダ」という言葉についてまわるネガティブなイメージをついに払拭することができないまま、この世をさりました。
しかし彼はその著書の中で、大衆が決定権を持つ民主主義社会の潤滑材的としてなくてはならないポジティブな技術という位置づけでプロパガンダを紹介しています。

そしてバーネイズは、民主主義の主役である大衆をコントロールする技術を持つ人々が「見えない統治機構」を構成し、支配者として君臨していると言っています。

『この、”姿の見えない統治者”と呼べる人たちは、多くの場合、彼ら自身も、その統治者の集団の他のメンバーたちのことはお互いに知らない。』~エドワード・バーネイズ

あるある大辞典の例を見れば明らかなように、メディアを使った大衆のコントロールは可能です。バーネイズの技術は100年経った今も有効だということです。

インターネットが人間社会の情報の流れを大きく変えた現在も、マスメディアは大きな力を持っています。そしてそれを利用して大衆をコントロールしようとする広告代理店、財界人、政治家。大衆操縦のためのデータに権威付けをする学者たち。

私たちは彼らの意のままに操られているのでしょうか?

*=*=*=*

私は、突き詰めて考えればそのような「影の支配者」はいないと考えます。

例えば、ある食品業界のリーディングカンパニーの広報部にいる才気あふれるある社員が、メディアを利用してある食品の健康増進作用について広く告知し、売上を伸ばすことに成功したとしましょう。

しかし、彼がそのようなことをしたのは、上司から「方法は問わないから売上を伸ばせ」と言われていたことに起因したとしたらどうでしょう?

つまり、彼は上司にある意味において操られ、プロパガンダを実行したということです。

彼は人々にある食品を買わせることに成功しましたが、彼は人々を操りたかったのではなく、上司に認められ、出世したかっただけなのです。

では、彼の上司が私たちの心を操る影の支配者でしょうか?そうではないでしょう。上司は単に、売上を伸ばしたかっただけなのですから。

そして、「豊かになりたい、社会で成功したい」といった考え方がこの世の価値観の全てではありません。そうした考え自体も、人生のある時点でその人の外側からその人に入り込んだ考え方なのです。

商売がらみではなく政治的な問題だったとしても、直接世論操作する人の背後には必ずそれを動かす人がいて、さらにその人は誰かや何かの影響をうけた結果そうした行動に至ったことに違いはありません。

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プロパガンダ、もしくは現代の洗練された商業的または政治的な広報活動は、確かに大衆を操る効果的な手法ではあります。

しかし私たちが生きているということは、常に何かの影響を受けながら作動するということを意味します。

つまり、操る側も必ず誰かに(または何かに)操られているということです。

よって、真の意味での影の支配者はいないと、私はバーネイズに言いたい。


大きな影響力を持ち、確信犯的にそれを行使し、支配者を気取っている人もいるでしょう。

しかし、彼等の意思はどこからやってくるのでしょうか?

彼等がある行動に大衆を駆り立てようとする、その動機の奥底にある、真の動機は?


・・・私たちの誰もが、他の誰かが発した情報を受け取らずに生きることはできません。

友達からくるメールや話し相手の発する言葉は、少しずつあなたの心に変化を与えます。

新聞やテレビなどのマスメディアは情報を大量配信し、大衆の合意を形成するための媒体となっています。

ネットはパーソナルなメディアとしても機能しますが、それもまた人が人に影響を与えるための経路の一つです。

そうしたものからの影響を一切絶とうとしても、文明社会に生きている限り、私たちの視界は人工物でいっぱいです。

家の中にいれば窓の外以外は全て人工物です。では、窓の外には何が見えるでしょうか。

舗装された道路、家々、街路樹、商店やビルディング、様々な広告、道行く人々のファッション、自動車、、、

そら以外のほとんどのものは、人が作ったものか、人が手を加え、配置したものばかりです。


私たちは時に、それを見たり触ったり使ったりすることを通して、作った誰かの思いを自分の中に取り込み、それは私たちの行動を少しずつ変えていきます。

人々を意のままに操っている気になっている人も、こうした外部からの影響のもとに行動しているのです。

あなたも私も同様です。

そして同時に私たちは、多少に関わらず何かを生み出し、知らず知らずの間に他の誰かに影響を与えています。

何か形のあるものを作らなければならないというわけではありません。

例えば、あなたの放った何気ない言葉が、他の誰かの心に火をつけて思い切った行動に駆り立てることもあるでしょう。

ネットが普及した今では、あなたの書いたブログを読んだ誰かがそれを読んだことによって、それを読まなかったときにはするはずのなかったことをし始める場合だってあるのではないでしょうか。


これらは全て、私たちの本質が脳という自己プログラミングする情報処理システムであることに起因しています。

バーネイズが確立したプロパガンダという技術は大衆を操作する有効な手段ですが、私たちは操るものと操られるものに分けられることは決してありません。


私たちは皆、操り人形であると同時に、無自覚な人形使いなのです。


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ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで

2010年7月19日月曜日

哲学する科学:脳が紡ぐ世界の中心でネコと話す

(大変ご無沙汰いたしました。今回はちょっと個人的な内容です。)

人はなぜ、ペットを飼うのだろう?

そもそもペットとは、なんだろう?

*=*=*

古来、ネコは害獣を駆除する益獣として、犬は狩猟のパートナーとして、ヒトと共生関係を持つようになったという。

特に猫は、穀物などの食糧だけでなく、記録媒体としての紙をネズミの被害から守る、"外部化されたミームの番人(番猫?)"という役割も担っていたらしい。

やがてヒトは、自らの脳が持つ"世界を作り出す能力"によって見る世界の中で、それら共生関係にある動物たちに"心"を与え、私的対話を始めた。

ヒトは、あらゆるものを擬人化する能力を持っている。
これは脳という"世界推論機"の中で、外界にある事物の振る舞いを予測するのに効果的な手段だからだと思われる。

犬や猫のような生命体は特に、自律的に作動して人間と似た振る舞いも多く見せるにも関わらず言葉が通じない為、私たち人間は擬人化してその意図などを推測することになりやすい。

ペットショップの檻の中でこちらを見つめて鳴いている動物を見ると、遺伝子の呼び声(母性、父性)とあいまってつい、自分に保護を求めているなどと思い込みがちだったりする。

実際、そうなのかもしれないが、単に現時点で空腹に耐え難く、母親が近くにいないので誰彼構わず本能的に鳴いているどけかもしれない。

しかし私の脳はご多分に漏れず、それ自体が生み出す世界の中で、自宅の勝手口に現れて泣き続けるそののらネコに"人格"を与えた。
程なく"ハナ"という名前も与え、彼女は私の脳の中で、私の一部となった。

以来、私の脳はその"ハナ"という記号に多くの意味を加えていった。同時に、脳の中で彼女の思考をシミュレートし、"心"を通わせていった。

実際のところそれは、シミュレーションというよりは"事実の捏造"に近かったと思う。
彼女は単に、人間が支配するこの世界の片隅に生き残ってきたが当然持っているだろう特性を、つまり遺伝子の作った機械として現在置かれた環境での生き残りに有利な行動を、現し続けていただけなのかもしれない。

しかし私の脳が紡ぐ"私の世界"の中では、彼女はそれだけの存在ではなかった。常に私を"信頼"し、誰より私が"好き"で、そして、"家族"の一員であり、私の宇宙を豊かにする、とても大きな存在だった。

*=*=*

"ハナ"は私に役割も与えてくれた。

私の世界の中では、私は彼女の"保護者"であり、人間の支配する世界の中で弱い存在である彼女を、人間や他の猫たちから守った。
気付けばその役割は、私という存在を私自身に説明する上で欠かせない程になっていた。

*=*=*

3月、彼女は不治の進行性慢性疾患の最終段階に入った。

昨夜病院に連れて行き、痙攣の発作を抑えるための注射を打ってもらった。このまま、眠るように最期を迎えるだろうという。

たった今、前足を素早く三回振った。狩りの夢でも見ているのだろうか。

*=*=*

彼女は、持って生まれた人好きのする性質と、私の側で生まれたという条件によって、私に"保護"され、食糧と安全な寝床にも困らなかった。

不満もいろいろあったとは思うが、それは概ね、"幸せ"なことだったのではないだろうか。

そして私もまた、彼女に"役割"を与えられ、彼女の守り神となることで、救われていたのだ。

*=*=*

その後、医者の予想に反してハナは驚異的な回復を見せ、さらに一ヵ月半を生きた。

やせ細った体で自分で歩いてトイレに行き、食事もよく食べた。

そんな特別ボーナスのような時間、私は私の世界の中で、たくさん彼女と話すことができた。

今も彼女は、私の心のなかにある。

そのことはこれから先の私の人生を、彼女と出会わなかったよりも豊かなものにし続けてくれるだろう。

*=*=*

ヒトとそれ以外の動物は、共益関係を結ぶことがある。

その関係の中で、ヒトの側が得る利益が"心の充実"である場合、その動物はペット(またはコンパニオンアニマル)と呼ばれる。

つまりペットとは、ヒトに保護されることで生き残る動物であると同時に、見返りとして、ヒトに"生きる目的"や"幸せ"を与えてくれる存在である。

ヒトはなぜペットを飼うのか。

それは、彼らと共に暮らし保護することが、自らを救うからである。

ハナ、長い間ありがとう。

*~*~*

2010年2月26日金曜日

哲学する科学:脳は世界を推測する

『四次元の世界の生き物が四次元の世界から眺めれば、私たちの行動もばかばかしく滑稽な、ゆがんだ行動に見えるだろう』 ~ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン

以前、世界は全て情報から出来ていると書きました。
今日は、それを私たちの脳がどのように処理しているかというお話です。

セス・ロイド曰く、「宇宙は量子コンピュータであり、その中で処理される情報は、幾度かの"情報処理革命"によって、星々や生命、そしてわたしたち人間を生み出してきた。」と。


その理論に納得した私には、周囲の景色や人々が会話する様子が、数字の流れに見える、ということもお話しました。

…なんか、アブナイ人みたいですが(笑)

でもそれは、私の脳が、現時点での世界の理解に基づいて紡ぎ出す世界なのであり、他の人にはきっと、違って見えることでしょう。

というか、"世界"はそれを観察する者の数だけ存在し、一つとして同じものはないのです。

~*~*~*~

ヴィラヤヌル・ラマチャンドランは臨床脳科学者で、"幻肢の切断術"に世界で初めて成功したことで知られています。

"幻肢"とは、失った手や足がまだ存在すると感じる症状、または感じられる手や足そのものを指す言葉です。
それを持つ人は、存在しない手の指が存在しない手の平に食い込む痛みに苦しんだりする場合もあれば、自在に動かして物もつかめると主張する場合もあるそうです。

ラマチャンドラン博士は、鏡を入れた箱を作り、それを使って患者の脳に"その手はもうないのだ"と納得させることで、"幻の"手を切断することに成功したのです。

詳しくは博士の著書「脳の中の幽霊」にゆずりますが、この事例からわかるのは、

「脳の中の手と、"実際の"手は、別の物である」ということです。

博士はこの他にも、脳の機能障害について様々な症例と、それについての考察を述べられています。

そして、以下の症例が示唆する事柄に気づいた時、私は非常に大きな衝撃を受けました。

~*~*~

ある女性は事故で脳のある部位にダメージを受け、一命はとりとめたものの、ある奇妙な症状が残りました。

彼女は身だしなみにとても気を使う人で、無事回復したある日、しっかりと化粧をして服も入念に選び、出かけようとしていました。

しかし周囲の人は、その格好を見て心底驚いたようでした。
なぜなら、彼女は顔の右半分にだけ化粧をし、衣服も左半分はきちんと着ることができていなかったからです。

彼女の脳は事故により、"世界の右半分しか認識できなくなってしまった"のです。

単に左半分が見えないというのではないのです。
それどころか、彼女の視覚野は無傷で、彼女の左側にあるものも映し出しているはずでした。

にも関わらず、彼女は世界の左半分を完全に"無視"するというのです。

~*~*~

"半側無視"と呼ばれるこの症状は、脳の特定部位の損傷によって現れます。

多くの患者は、患者の右側に鏡をおいてその人から見た左側を映し出しても、それを左側とは認識しないそうです。そして、「そこにあるものを掴んで」と指示されると、困ったように、鏡の中に向かって手を伸ばすそうです。鏡がどういうものか、わかっていながら。

~*~*~

私はそれを読んだ時、慄然としてしまいました。


半側無視の患者の症例は、「私たちが認識している"世界"は世界そのものではなく、脳が提示する一つの解釈に過ぎない」ということの証拠を我々に突きつけています。

では、脳の欠損のない人が見ているこの世界が、世界の唯一無二の姿だと、どうして言えるでしょう?

赤外線、超音波、磁場・・・

私たちが生身では感知できない情報が、世界には溢れているようです。

それだけではありません。空間の認識についてさえ、この話は疑問を投げかけています。

前、後ろ、上、下、右、左・・・

未来、過去・・・

・・・他には?

私たちにはいったい、世界のどれだけが"見えて"いるのでしょう?

目の見えないアメーバが触覚だけを頼りに認識する世界と、人間が認識する世界には、果たしてどれだけの隔たりがあるのでしょうか。

ともあれ、私たち人間にとっての世界とは、脳が自らに許された能力の範囲で、五感からの入力を元に紡ぎ上げ続ける世界だということは間違いないでしょう。

そして、世界の真の姿とは、永遠に私たちの"手"に触れることさえないのかもしれません。


しかしそれでも人間は、手探りで少しずつ、世界の真の姿を探らずにはいられない生き物なのです。


『脳が自分自身を理解しようと奮闘している。だからこそ神経学はわくわくするほど面白い』 ~ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン

2010年1月22日金曜日

哲学する科学:ミーム工学が開くヒトの新時代

『工学(こうがく、engineering)は、科学、特に自然科学の知見を利用して、人間の利益となるような技術を開発し、製品・製法などを発明することを主な研究目的とする学問の総称である。』 ~ウィキペディア

みなさん、一ヶ月近くのご無沙汰でした。いかがお過ごしでしょうか。

私の方は、少し思うところがあり、用意していたメルマガの原稿をいったん破棄して、別のものをこうして書いています。
これはまだ私が漠然と考えていることでしかないのですが、今後、進め方によっては思わぬ発展を見せる可能性もあるのではないかと考えています。

以下、私がここしばらく考えていたことを書きます。

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ミームを操作する学問体系として、「ミーム工学」というものを構築することを提唱したい。

<ミーム工学の必要性>

「ミームは遺伝子に対するDNAのような実態がつかめないから科学の対象とならない」という意見があるが、ヒトが世代を超えて築き上げてきた文明、思想、社会システムなどを見れば、遺伝的経路に拠らないある種の情報が人から人へ伝わり、それが人々の行動に多大な影響を与えているのは明白である。

そしてそれは遺伝子同様、自然選択によって進化しているように見える。しかも、遺伝子とは比較にならない速度で。

(その「情報」をミームと呼ぶかどうかはともかく)これを研究し制御することが、今後の人類の運命に多大な影響を与えるということについて、私は確信を深めている。

そのためにミーム工学(名前が不適切だというなら別の名前でも構わない)というミーム複合体を生みだして広めることは、脳というハードウェアの研究によりミームの正体が解明されることを待たずして、21世紀に人類がもっとも注力すべきことのひとつであろう、と考える。

<ミーム工学とは何か>

まだ具体化しているものではないが、ミームのメカニズムの理解のあるなしに関わらず、ミームの性質を実験などから解明し、その本質的役割と、制御の方法を確立する学問であると定義したい。

たとえば、「外部からある人に入った情報がどのようにその人の行動に影響を与えるのか」「その情報は、その人の中でどのように変異しうるのか、またどのように他の人にコピーされうるのか」「どのような情報が効果的に人を動かすのか」「どのような情報がヒトの社会の中で効果的に増殖するのか」などは、ミームという実態をつかんでいなくても、実験からある程度検証が可能なはずである。

より具体的には、

人から人に直接または間接に伝わる「AをBしろ」または「Xせよ」といったシンプルな命令およびそれを補強する情報の構造を、自然言語に依存しない形で記述する方法を確立することが考えられる。
また、それを自然言語に翻訳し、実際に社会の中に放ってどのように拡散・変異または消滅していくか実験するといったことが考えられる。

*これはブロディの言う「設計ミーム」または「マインドウィルス」をばら撒く恐ろしい行為のように聞こえるかもしれない。
*しかしすでに多くの国の政府や企業がマスメディアなどを通じて日常的に実行していることであると思われる。
*私は、一部の人たちの間ではたぶん、ミーム工学的なものはある程度確立されていて、私たち一般市民はそれに対して無防備な存在なのかもしれないとも考えている。
*もし私が突然不慮の死を遂げたら、それはそうした特権階級が、自分たちの権益を守るために必要なことをしたということなのだろう。…と、これ以上書くとただの陰謀マニアと取られるのでやめておく^ー^)

ともあれ、「科学的良心」を持って事に当たれば、それは原爆を作るのと同義ではなく、一部の人しか持たない知識を一般化して広く知らしめることで、搾取と不公平を取り除くことにもつながる。小学校で「人権」と一緒に「ミーム」を教える日も来るかもしれない。

・・・「工学」とは、科学的知見を利用して、人々の役に立つ技術や製品やサービスを開発・発明する学問だそうである。

私たちが人間であるということは、遺伝子が作った生命というシステムであると同時に、そのシステムのもっとも複雑な産物である脳という生体コンピュータの上で日々形を変えていく情報のかたまりでもあるということである。

その情報とそれが生み出すヒトやヒトの集団の活動が、外から与えられる情報でどう変化するか。
その法則をとらえた上で、そのヒトの集団自体にとって、その知識をどう利用すると、より益となるか。
ヒトやヒトの社会、文化は、情報という側面からみると、どのようにとらえることができるのか。
その知識を利用して、社会は文化をどう変異・発展させられるのか。また、どう変異・発展させるべきなのか。

ミーム工学という学問は、

「私たち人類が、私たち自身とそれを駆動する仕組みを解明し常識化することで、人類全体を次のステージに登らせること」

を可能にすると考える。

+-+-+-+-+-+

真面目に、もっと勉強して、この分野を切り開くことができたらどんなに素晴らしいだろう…そんな風に考えています。

皆様の率直なご意見をお聞かせいただければ幸いです。

 守本憲一

哲学する科学:生まれ変わり続ける私

少し前になりますが、NHKの番組で哲学者の清水哲郎さんという人が対談番組にでていたのですが、番組ホストを務める爆笑問題の太田さんが、こんなことをいったのが印象的でした。

「人間っていうのは毎日生まれ変わっていると思う。昨日の俺と今日の俺は、もう別の人なんじゃないかってね。」

確かに、私たちは日々、外界から入ってくる情報を取り込み、時々刻々と変わり続けています。

昨日の私と、今日の私。

その差は微々たるものかもしれないけど、確かに違う。


奇しくも、いま私が読んでいる小説も、同じ思いを抱かせるものがあります。


「君が僕を見つけた日」(オードリー・ニッフェネガー作)の主人公は、ストレスを感じると、意に反してタイムトラベルをしてしまいます。


彼はその人生の中で何度となく時間を超え、過去や未来で自分自身や、もう一人の主人公である女性と交流します。

読んでいると、「子供の頃の自分は現在の自分とは別の人間かもな」とか、「出会った頃のあの人ともう一度会ってみたいな」という気持ちが沸き起こってきます。

なぜなら、自分も、大切なあの人も、日々変わり続けているから。


考えてみると、変わり続けているのは、脳の中の情報の構成だけではありません。

私たちの体を構成する全ての細胞は、日々生成死滅を繰り返し、新しいものに取って変わられています。

一人の人間の体を構成する細胞は、6~7年で全て新しいものに入れ替わると言われています。

つまり、7年後のあなたの体は、もう全く新しいものといっても過言ではないのです。


私たちの体を構成する物質は、私たちが生まれてから死ぬまでの間でさえ、どんどん入れ替わっていく。

つまり、「私たちの本質は、物質ではない」ということにならないでしょうか。

では、私たちは一体何からできているというのでしょう。


以前、宇宙の本質は物質ではなく情報であると考えられる、というお話をしました。

私たち人間もまた、生きている短い期間においてさえ、物質的には不変ではありません。

ならばその本質は、遺伝子およびそれが定義する細胞の機能や配列、

そして脳の中に蓄えられ行動を規定するミームとそれが引き起こす行動といった「情報」である、

と私は考えます。


生命の本質もまた情報であるなら、

そして人生の本質は、宇宙の情報処理の一要素に過ぎないなら、

私は何を悩んでいたのだろう?

と、ふっきれたりもします。


しかしその一方で、人生が単なる"計算"の一部なら、悩みが減る分、喜びも割り引かれるのでは?

理解不能な計算の一部に過ぎない人生に意味などないのでは?

そんな思いに囚われることも、正直あるのですが。


…そんな時私は、こんな風に考えます。



人の一生は、宇宙全体の壮大な計算の一部である。

そして、宇宙全体の計算の目的が人智を超えていて、そこから人生の目的が導けないとしても、、、

本質的には情報である私たちの、宇宙全体からみればつかの間の計算に過ぎない人生において…


「喜びを感じることができる」というのは、奇跡と呼ぶべきものなのではないかと。

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毎秒、毎分、毎時、毎日。

毎週、毎月、毎期、毎年。


私たちは、死ぬまでもなく、絶え間なく生まれ変わり続けています。


もうすぐ2010年。

今年の経験した、すべての良いこと、悪いことは、「去年存在した別人」の体験となります。


明日、来週、来年、10年後、そして、人生の最後に・・・

生まれ変わり続ける「私」は、どんな顔を見せてくれるのでしょう。