2011年4月10日日曜日

哲学する科学:震災に未来を思う

東日本大震災の発生から一ヶ月が経過しようとしています。

読者の方の中には直接に被災された方もいらっしゃるかもしれないので発行を少しためらいましたが、私の持てるささやかな影響力を行使して、少しでも世界にポジティブなインパクトを与えられたらという思いで書いたものをお届けします。

震災を超えて、新しいニッポンが立ち上がってくることを祈って。

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大震災で多くの人命が失われた。過剰な自粛の経済への悪影響を懸念する声もあるが、死者たちに哀悼の意を表し、喪に服すのは悪いことではないし、そういう気持ちは失ってはいけないだろう。義援金、救援物資など、助け合いの精神も広がっている。

原発も壊れた。建設中や稼働中のものも含め、大きな見直しの流れが生まれつつある。結果として当面の電力不足は必至であり経済への負の影響が懸念されている一方で、それを受け入れ節電を心がけるだけにとどまらず、これまでの生き方を見つめ直そうという機運も生まれてきている。

私たち人間は、外部環境から入ってくる情報を受け取り、それによって少しずつ変わる存在である。

何が変わるのかといえば、”脳内の情報の構成”と、”行動”が変化するのだ。
そして私たちの”行動”は、他者にとっての環境となり、他者の変化を促す。
ネットやマスメディアに溢れている情報は、我々の行動が生み出している。
そしてその情報が、私たちを変えていく。

私たち一人ひとりの”行動”と”環境”の相互作用は、生まれてから死ぬまで続く。
その無限の反復による継続的変化は、人間の行動に寄らない外部事象にも影響される。
そして今回の大震災のような大きな事件が私たちに与えるインパクトは計り知れない。

今後数年、もしかしたら数十年、私たちはいろいろなことを我慢しなくてはならないだろう。
しかしこの恐るべき苦況が私たちに変革を促し、そこから生まれた新たな思考や行動の様式が、世界を未来へと導いていくかもしれない。

これから起こっていく変化の全てを言い当てることは誰にもできないが、大きな変化が起きることは間違いない。
そして、現状すでに起きつつある変化から多少の予測をしてみることはできる。

震災の影響によって、日本に済む私たちの心の中では以下のような考え方が活性化されているように見受けられる。

→被災者への共感と、助け合いの意識
→浪費への反省と、節約の意識

思えば、バブル景気の時代は消費(浪費)こそ正義といった風潮(共有された思考)があった。
バブル崩壊後、私たちのそうした思考は否定されたものの、それに変わる価値観を見出せずに来たように思う。

今、震災によって私たちは、立ち止まって考えることを余儀なくされている。これは、見方を変えればとても大きなチャンスだ。

実際に、ついこの間まで「もっと作ってもっと買えばいい、たくさん稼いでたくさん使えばいい」と考えていた人たちが、資源の有限性や代替エネルギーについて思いを巡らせている。

ライバルに勝ち、より多くの可処分所得を得ることに血道を上げていたものが、電力の供給低下によって避けられない経済の失速を受け入れるばかりか、自分の持っているものを他人に分け与えている。そして現行の経済システムに改めて疑問を感じている。

古来から日本人は、思いやりやもてなしの心に優れていたという。それは、私たちが代々受け継いできた、大切な心の遺伝子である。
第二次大戦後、主に米国から入ってきた効率と物質的豊かさを重んじる考え方がそれらを上書きしてきたが、私たちの中にはまだ先祖の遺伝子が息づいている。

そんな私たちの心の遺伝子(先祖の魂といってもいい)がこの危機という特大の環境的変化によって活性化され、それが”今”に適応したとき、何が起きるだろうか?

私は、100年後の歴史の教科書に以下のような説明が載ったとしても驚かない。

〜東日本大震災後の日本は、経済の悪化の中で価値観を転換、物質的豊かさより精神的な豊かさを追求する人のあり方を世界に示した〜
〜グローバルな経済競争という終わりなきゲームから距離を置き、個人の欲を原動力とする消費社会からの脱却を目指した〜
〜原子力というもろ刃の剣を捨て、宇宙太陽光発電というクリーンなエネルギーの開発に国際的なリーダーシップを発揮した〜
〜過去の負の遺産を負うことなく将来の世代のために働くことができる今の世界の枠組みを作ったのは、当時の日本人たちであると言っても過言ではない〜

もちろん、未来における”現実”はおそらくもう少し複雑だとは思う。
経済至上主義が強い力を持つ今の世界において、利己主義と強欲を完全に払拭することは難しい。

しかし、希望あふれる未来を期待させる空気が今、確かにある。
それを感じ取り、それに従って行動する人が多ければ多いほど、実際にそうなる可能性は高まる。

未来はいつだって、”今を生きる”私たちが創りだすのだ。

巨大な悲しみの中から素晴らしい希望の芽を見つけ、それぞれの場所で育てていこうではありませんか。

2011年1月3日月曜日

哲学する科学:人工生命元年の終わりに寄せて

早いもので、2010年も終わろうとしています。

1984年に作られた映画<2010年>では、太古の昔に人類の祖先を文明に目覚めさせた存在が、今度は木星の衛星エウロパに芽生えた知的生命体を進化させるために木星を太陽化させた年が西暦2010年でした・・・が、私たちの"現実"においてはそのような出来事は起きませんでした。

その代わりに、遺伝子工学の発展で人工生命を生み出せることが証明された年となりました。
ニュースでも取り上げられたのでご存じの方も多いでしょう。
ヒトゲノムを解析したクレイグ・ベンター博士のチームが、今度はコンピュータ上で編集した遺伝情報を細菌の細胞に書き込み、生命として活動させることに成功したのです。

ベンター博士は講演会で、「<生命とは何か>ということについて、私たちの理解が先に進められることになる」と語り、また今回の成果の応用として、「人間によって遺伝子をデザインされた生物(細菌など)を使って、二酸化炭素から石油に変わるエネルギーを生み出し、エネルギー産業を一変させることが出来る」というようなことを、さらっと説明してくれちゃっています。

生物の機能を遺伝子レベルで詳細に操作できるようになると、農作物に手を加えて栄養価や生産性を高めたりすることで食料不足を改善したり、体内に入って免疫力を高めたり病気を直したりする細菌やウィルスをつくることも可能でしょう。

問題の(?)講演会はこちらで見ることができます。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/craig_venter_is_on_the_verge_of_creating_synthetic_life.html

哺乳類のような複雑な生命体を直接操作することはまだ難しいということですが、そう遠くない将来、私たち"人類の叡智"は自らの身体さえも思い通りに改造していくことでしょう。

小説<2001年宇宙の旅>の作者、アーサー・C・クラークが同著の前書きで「事実は空想よりも常に、遥かに異様であるにちがいない」と書いていましたが、まさにその通りの様相を呈してきています。


*~*~*

さて、ベンター博士のチームが証明したのは、突き詰めれば「細胞はコンピュータのハードウェアのようなものであり、遺伝情報はコンピュータのソフトウェアのようなものである」ということです。

どういうことかというと、例えばある細胞に改変したDNAをインストールすると、そのソフトウェア(DNA内の情報)に従って動作し、やがてはハードウェア自身をソフトウェアの支持に従って書き換えてしまうということです。

人間が作った道具としての"コンピュータ"と違うのは、ハードウェアを作るのもソフトウェアであるということです。

私たちの身体を構成する60兆もの細胞の一つ一つは、たったひとつの受精卵の中にある一揃いの遺伝情報に書かれているある種の指令によって作られます。

改めて考えてみると信じられない気もしますが、細胞膜はどんなふうに作り、どの様に細胞を分裂させ、どんなタイプの細胞にいつどのように別れていくか…そうしたことは全て遺伝子に書かれているというわけです。スゴイですね。

で、その受精卵もまた、女性の体の発達の結果作られる卵細胞(卵子)という細胞のひとつに、男性の身体の発達の結果作られる精細胞(精子)が入り込み、それらの遺伝情報が合わさることで作られるわけです。

そしてそれを実現するための人の行動もまた、(ある程度までは)遺伝子の指令だというのですから…まったく、ねえ。

*~*~*

で、このように考えてくると、ソフトウェアである遺伝情報と、ハードウェアである細胞のどちらが先に生まれたのかという疑問も生じてきます。

生命が誕生したと言われる36億年前の地球については、当時の状況を知る手がかりが非常に限られていて、最初の生命がどの様に生まれたかということについてはまだはっきりと分かっていませんが、多くの科学者が仮説を立てています。

生物学者リチャード・ドーキンスは、まず自らを複製する遺伝子が生まれ、その遺伝子が進化して、細胞という鎧をまとうようになったというような仮説を「利己的な遺伝子」の中で語っています。

「はじめに遺伝子ありき」

生命の本質は遺伝子であり、私たちヒトを含む生き物の身体は遺伝子の乗り物に過ぎないと説くドーキンス博士らしいですね。

でも考えてみると、最初に体だけあっても自分を複製することはできなかったでしょうから、少なくとも遺伝子が最初にあっただろうことには疑う余地はあまりないように思います。

ただし私は、「遺伝子が先に生まれたから、私たちの正体は遺伝子である」と結論づけるつもりはありませんが。

*~*~*

「私たちの身体は、遺伝子を守り、受け渡すための入れ物であり、乗り物である。」

このドーキンスの考え方に異を唱えるつもりはありません。

しかし、ドーキンスのこの考え方自体も、ダーウィンの考え方を発展させたものであることを考えると、こうした考え方(思想)のようなものは、遺伝子によって受け渡されるものでないことは間違いなさそうです。

それは、ダーウィンの著書や論文によって他の人間の脳内に(少しずつ異なる)思想の複製が生まれ、複製を持った人間の一人であるドーキンスの脳の中で変異することで誕生したものです。

<ミーム>と呼ばれる、思想や文化を運ぶ遺伝子以外の自らを複製する情報の断片(自己複製子)について最初に提唱したのもまたドーキンスであるということは、とても興味深い事実です。

*~*~*

ベンター博士の研究もまた、先人たちが残したミームを受け継ぎ、それを元にして生み出されたものです。メンデルが<遺伝学>というミームを生み出し、ワトソンとクリックがDNAを発見し、<遺伝子工学>が生み出されなければ、「人工細菌」も生まれなかったでしょう。

つまり、遺伝子を人工的に操作するということは、「ミームが遺伝子を支配し始めた」と見ることもできます。

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ただし、私たち(ミームたち)は注意しなければなりません。

私たちの身体を含む地球の生態系は、数十億年という気の遠くなる歳月をかけて作られてきたものです。そして、私たちはそのすべてを理解しているわけではありません。

いまある地球上の生物圏の多様性と美しさに、操作を加えるということに関しては慎重の上にも慎重に行う必要があるでしょう。

しかし私たちの本性として、世界に干渉する新しい方法を生み出し、それを実際に活用するということを止めることはできないとも思います。

ミームは複製され、増殖し、変異するという性質を持っているのですから。

ベンター博士が生み出した新たなミームは、やがて世界に大きなインパクトを与えることでしょう。

それがこれからどのように広がり、どのように変異し、どのように世界を変えていくのか。

そう、ミームには世界を変える力があります。

<環境保護>というミームは、世界のあり方を大きく変えようとしています。

ベンター博士のミームは、<環境保護>や<生命の尊厳>といった強力なミームたちと競合し合い、しのぎを削り合いながら、世界を変えていくことでしょう。

そして、それは同時に私たちそれぞれに向かって、

Q:生命とは何か

Q:ヒトとは何か

Q:人類とはなにか

といったことを問い直してきます。

2010年の終わり、カウントダウンなどしながら、新しい年の始まりに向けて、こうしたことを考えてみるのもいいのではないでしょうか。

なぜって、私たち一人ひとりのそうした思索の積み重ねもまた、積み重なれば世界を変える重要な要素となっていくのですから。

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今年もありがとうございました。来年が皆様にとってよい年となりますように。ハッピーニューイヤー!

2010年10月8日金曜日

哲学する科学:プロパガンダと影の支配者たち

皆様、大変ご無沙汰いたしました。私は今インドを放浪中で、今ダラムサラにいます。なかなかメルマガを発行できず、申し訳ありません。ただ、発行頻度よりもしっかりした内容をお届けすることを念頭にこれからも続けてまいりますので、今後ともどうかよろしくお引き立ての程お願い申し上げます。

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私は以前、ミームを使ったエンジニアリング(ミーム工学)を確立すれば、21世紀において個人や社会の在り方を変革する原動力となるのではないかと書きました。今もその信念は変わりません。(詳しくはバックナンバー「ミーム工学が拓くヒトの新時代」をご参照ください)

最近は、私の思い描くミーム工学と近い既存の学問体系について勉強しています。心理学、生物学、文化人類学、計算機科学、情報工学、認知科学・・・
そしてこれらを学んだ上で、やはりミーム工学が必要だと感じたならその端緒を開くための活動を開始しようと考えています。

ところで、私がミーム工学について書いた直後に、"それに近いものなら既にある"と教えてくれた読者の方がいらっしゃいました。
今回はその方が教えてくれた「プロパガンダ」というものについて、私なりの考えをお話してみたいと思います。

○=○=○

あなたは、プロパガンダという言葉で何を思い浮かべますか?

ウィキペディアの記事から抜粋すると・・・

『プロパガンダ (propaganda) は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為である。
通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、カトリック教会の布教聖省 (Congregatio de Propaganda Fide) の名称である。ラテン語の propagare(繁殖させる)に由来する。』

なんとなく、マインドコントロール的な意味合いが強いネガティブなものとして説明されていますね。

しかしプロパガンダを生み出した男は、そうは思っていなかったようです。

20世紀の初め頃に活躍した「プロパガンディスト」エドワーズ・バーネイズは、近代広告業界の父と呼ばれ、「プロパガンダ教本 (原題は"Propaganda")」という本を著しました。

バーネイズは、プロパガンダという名で大衆の心理を効果的に操作する手法は彼が確立したものであるといいます。

そして彼がプロパガンダについての本を書いたのは、ナチスドイツによるプロパガンダ技術の悪用により、プロパガンダという言葉に染み付いてしまったネガティブなイメージを払拭するためだと言われています。

バーネイズはこんな風に書いています。『プロパガンダは大衆説得の技術』であり、民主主義の世界的な普及とともに、民意を効率的に束ね、社会的に重要なことを達成するために必要不可欠なものとして生まれてきたものであると。

プロパガンダの技術を使えば、大衆を思い通りにコントロール出来るといいます。

身近でわかり易い例を使ってご説明しましょう。

数年前打ち切りになった「あるある大事典」というテレビ番組がありましたが、この番組で紹介される商品は必ず売れるという評判でした。

「あるある大事典」が行っていたことは、以下のようにまとめることができます。

ある企業が売り込みたい商品を持ってくる。番組制作者は、その商品を以下にして売り込むかについてのシナリオを書き、それを裏打ちするような研究をしている学者などを使って権威付けする。

結果として私たち大衆は、「なるほどー、納豆はそんな風に体にいいんだ!明日から毎日食べようっと」などと思ったりする(プログラムされる)わけです。

あるある大事典は、最後には研究結果などを捏造して番組は打ち切りになってしまいましたが、そういうルール違反を犯さなければ、いまでも毎週何かについての私たちの購買意欲を刺激し続けていたことでしょう。

そして、「あるある」が使っていた手法は、正にバーネイズが書いていたことそのものでした。

*=*=*

バーネイズは、「プロパガンダ」という言葉についてまわるネガティブなイメージをついに払拭することができないまま、この世をさりました。
しかし彼はその著書の中で、大衆が決定権を持つ民主主義社会の潤滑材的としてなくてはならないポジティブな技術という位置づけでプロパガンダを紹介しています。

そしてバーネイズは、民主主義の主役である大衆をコントロールする技術を持つ人々が「見えない統治機構」を構成し、支配者として君臨していると言っています。

『この、”姿の見えない統治者”と呼べる人たちは、多くの場合、彼ら自身も、その統治者の集団の他のメンバーたちのことはお互いに知らない。』~エドワード・バーネイズ

あるある大辞典の例を見れば明らかなように、メディアを使った大衆のコントロールは可能です。バーネイズの技術は100年経った今も有効だということです。

インターネットが人間社会の情報の流れを大きく変えた現在も、マスメディアは大きな力を持っています。そしてそれを利用して大衆をコントロールしようとする広告代理店、財界人、政治家。大衆操縦のためのデータに権威付けをする学者たち。

私たちは彼らの意のままに操られているのでしょうか?

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私は、突き詰めて考えればそのような「影の支配者」はいないと考えます。

例えば、ある食品業界のリーディングカンパニーの広報部にいる才気あふれるある社員が、メディアを利用してある食品の健康増進作用について広く告知し、売上を伸ばすことに成功したとしましょう。

しかし、彼がそのようなことをしたのは、上司から「方法は問わないから売上を伸ばせ」と言われていたことに起因したとしたらどうでしょう?

つまり、彼は上司にある意味において操られ、プロパガンダを実行したということです。

彼は人々にある食品を買わせることに成功しましたが、彼は人々を操りたかったのではなく、上司に認められ、出世したかっただけなのです。

では、彼の上司が私たちの心を操る影の支配者でしょうか?そうではないでしょう。上司は単に、売上を伸ばしたかっただけなのですから。

そして、「豊かになりたい、社会で成功したい」といった考え方がこの世の価値観の全てではありません。そうした考え自体も、人生のある時点でその人の外側からその人に入り込んだ考え方なのです。

商売がらみではなく政治的な問題だったとしても、直接世論操作する人の背後には必ずそれを動かす人がいて、さらにその人は誰かや何かの影響をうけた結果そうした行動に至ったことに違いはありません。

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プロパガンダ、もしくは現代の洗練された商業的または政治的な広報活動は、確かに大衆を操る効果的な手法ではあります。

しかし私たちが生きているということは、常に何かの影響を受けながら作動するということを意味します。

つまり、操る側も必ず誰かに(または何かに)操られているということです。

よって、真の意味での影の支配者はいないと、私はバーネイズに言いたい。


大きな影響力を持ち、確信犯的にそれを行使し、支配者を気取っている人もいるでしょう。

しかし、彼等の意思はどこからやってくるのでしょうか?

彼等がある行動に大衆を駆り立てようとする、その動機の奥底にある、真の動機は?


・・・私たちの誰もが、他の誰かが発した情報を受け取らずに生きることはできません。

友達からくるメールや話し相手の発する言葉は、少しずつあなたの心に変化を与えます。

新聞やテレビなどのマスメディアは情報を大量配信し、大衆の合意を形成するための媒体となっています。

ネットはパーソナルなメディアとしても機能しますが、それもまた人が人に影響を与えるための経路の一つです。

そうしたものからの影響を一切絶とうとしても、文明社会に生きている限り、私たちの視界は人工物でいっぱいです。

家の中にいれば窓の外以外は全て人工物です。では、窓の外には何が見えるでしょうか。

舗装された道路、家々、街路樹、商店やビルディング、様々な広告、道行く人々のファッション、自動車、、、

そら以外のほとんどのものは、人が作ったものか、人が手を加え、配置したものばかりです。


私たちは時に、それを見たり触ったり使ったりすることを通して、作った誰かの思いを自分の中に取り込み、それは私たちの行動を少しずつ変えていきます。

人々を意のままに操っている気になっている人も、こうした外部からの影響のもとに行動しているのです。

あなたも私も同様です。

そして同時に私たちは、多少に関わらず何かを生み出し、知らず知らずの間に他の誰かに影響を与えています。

何か形のあるものを作らなければならないというわけではありません。

例えば、あなたの放った何気ない言葉が、他の誰かの心に火をつけて思い切った行動に駆り立てることもあるでしょう。

ネットが普及した今では、あなたの書いたブログを読んだ誰かがそれを読んだことによって、それを読まなかったときにはするはずのなかったことをし始める場合だってあるのではないでしょうか。


これらは全て、私たちの本質が脳という自己プログラミングする情報処理システムであることに起因しています。

バーネイズが確立したプロパガンダという技術は大衆を操作する有効な手段ですが、私たちは操るものと操られるものに分けられることは決してありません。


私たちは皆、操り人形であると同時に、無自覚な人形使いなのです。


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ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで

2010年7月19日月曜日

哲学する科学:脳が紡ぐ世界の中心でネコと話す

(大変ご無沙汰いたしました。今回はちょっと個人的な内容です。)

人はなぜ、ペットを飼うのだろう?

そもそもペットとは、なんだろう?

*=*=*

古来、ネコは害獣を駆除する益獣として、犬は狩猟のパートナーとして、ヒトと共生関係を持つようになったという。

特に猫は、穀物などの食糧だけでなく、記録媒体としての紙をネズミの被害から守る、"外部化されたミームの番人(番猫?)"という役割も担っていたらしい。

やがてヒトは、自らの脳が持つ"世界を作り出す能力"によって見る世界の中で、それら共生関係にある動物たちに"心"を与え、私的対話を始めた。

ヒトは、あらゆるものを擬人化する能力を持っている。
これは脳という"世界推論機"の中で、外界にある事物の振る舞いを予測するのに効果的な手段だからだと思われる。

犬や猫のような生命体は特に、自律的に作動して人間と似た振る舞いも多く見せるにも関わらず言葉が通じない為、私たち人間は擬人化してその意図などを推測することになりやすい。

ペットショップの檻の中でこちらを見つめて鳴いている動物を見ると、遺伝子の呼び声(母性、父性)とあいまってつい、自分に保護を求めているなどと思い込みがちだったりする。

実際、そうなのかもしれないが、単に現時点で空腹に耐え難く、母親が近くにいないので誰彼構わず本能的に鳴いているどけかもしれない。

しかし私の脳はご多分に漏れず、それ自体が生み出す世界の中で、自宅の勝手口に現れて泣き続けるそののらネコに"人格"を与えた。
程なく"ハナ"という名前も与え、彼女は私の脳の中で、私の一部となった。

以来、私の脳はその"ハナ"という記号に多くの意味を加えていった。同時に、脳の中で彼女の思考をシミュレートし、"心"を通わせていった。

実際のところそれは、シミュレーションというよりは"事実の捏造"に近かったと思う。
彼女は単に、人間が支配するこの世界の片隅に生き残ってきたが当然持っているだろう特性を、つまり遺伝子の作った機械として現在置かれた環境での生き残りに有利な行動を、現し続けていただけなのかもしれない。

しかし私の脳が紡ぐ"私の世界"の中では、彼女はそれだけの存在ではなかった。常に私を"信頼"し、誰より私が"好き"で、そして、"家族"の一員であり、私の宇宙を豊かにする、とても大きな存在だった。

*=*=*

"ハナ"は私に役割も与えてくれた。

私の世界の中では、私は彼女の"保護者"であり、人間の支配する世界の中で弱い存在である彼女を、人間や他の猫たちから守った。
気付けばその役割は、私という存在を私自身に説明する上で欠かせない程になっていた。

*=*=*

3月、彼女は不治の進行性慢性疾患の最終段階に入った。

昨夜病院に連れて行き、痙攣の発作を抑えるための注射を打ってもらった。このまま、眠るように最期を迎えるだろうという。

たった今、前足を素早く三回振った。狩りの夢でも見ているのだろうか。

*=*=*

彼女は、持って生まれた人好きのする性質と、私の側で生まれたという条件によって、私に"保護"され、食糧と安全な寝床にも困らなかった。

不満もいろいろあったとは思うが、それは概ね、"幸せ"なことだったのではないだろうか。

そして私もまた、彼女に"役割"を与えられ、彼女の守り神となることで、救われていたのだ。

*=*=*

その後、医者の予想に反してハナは驚異的な回復を見せ、さらに一ヵ月半を生きた。

やせ細った体で自分で歩いてトイレに行き、食事もよく食べた。

そんな特別ボーナスのような時間、私は私の世界の中で、たくさん彼女と話すことができた。

今も彼女は、私の心のなかにある。

そのことはこれから先の私の人生を、彼女と出会わなかったよりも豊かなものにし続けてくれるだろう。

*=*=*

ヒトとそれ以外の動物は、共益関係を結ぶことがある。

その関係の中で、ヒトの側が得る利益が"心の充実"である場合、その動物はペット(またはコンパニオンアニマル)と呼ばれる。

つまりペットとは、ヒトに保護されることで生き残る動物であると同時に、見返りとして、ヒトに"生きる目的"や"幸せ"を与えてくれる存在である。

ヒトはなぜペットを飼うのか。

それは、彼らと共に暮らし保護することが、自らを救うからである。

ハナ、長い間ありがとう。

*~*~*

2010年2月26日金曜日

哲学する科学:脳は世界を推測する

『四次元の世界の生き物が四次元の世界から眺めれば、私たちの行動もばかばかしく滑稽な、ゆがんだ行動に見えるだろう』 ~ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン

以前、世界は全て情報から出来ていると書きました。
今日は、それを私たちの脳がどのように処理しているかというお話です。

セス・ロイド曰く、「宇宙は量子コンピュータであり、その中で処理される情報は、幾度かの"情報処理革命"によって、星々や生命、そしてわたしたち人間を生み出してきた。」と。


その理論に納得した私には、周囲の景色や人々が会話する様子が、数字の流れに見える、ということもお話しました。

…なんか、アブナイ人みたいですが(笑)

でもそれは、私の脳が、現時点での世界の理解に基づいて紡ぎ出す世界なのであり、他の人にはきっと、違って見えることでしょう。

というか、"世界"はそれを観察する者の数だけ存在し、一つとして同じものはないのです。

~*~*~*~

ヴィラヤヌル・ラマチャンドランは臨床脳科学者で、"幻肢の切断術"に世界で初めて成功したことで知られています。

"幻肢"とは、失った手や足がまだ存在すると感じる症状、または感じられる手や足そのものを指す言葉です。
それを持つ人は、存在しない手の指が存在しない手の平に食い込む痛みに苦しんだりする場合もあれば、自在に動かして物もつかめると主張する場合もあるそうです。

ラマチャンドラン博士は、鏡を入れた箱を作り、それを使って患者の脳に"その手はもうないのだ"と納得させることで、"幻の"手を切断することに成功したのです。

詳しくは博士の著書「脳の中の幽霊」にゆずりますが、この事例からわかるのは、

「脳の中の手と、"実際の"手は、別の物である」ということです。

博士はこの他にも、脳の機能障害について様々な症例と、それについての考察を述べられています。

そして、以下の症例が示唆する事柄に気づいた時、私は非常に大きな衝撃を受けました。

~*~*~

ある女性は事故で脳のある部位にダメージを受け、一命はとりとめたものの、ある奇妙な症状が残りました。

彼女は身だしなみにとても気を使う人で、無事回復したある日、しっかりと化粧をして服も入念に選び、出かけようとしていました。

しかし周囲の人は、その格好を見て心底驚いたようでした。
なぜなら、彼女は顔の右半分にだけ化粧をし、衣服も左半分はきちんと着ることができていなかったからです。

彼女の脳は事故により、"世界の右半分しか認識できなくなってしまった"のです。

単に左半分が見えないというのではないのです。
それどころか、彼女の視覚野は無傷で、彼女の左側にあるものも映し出しているはずでした。

にも関わらず、彼女は世界の左半分を完全に"無視"するというのです。

~*~*~

"半側無視"と呼ばれるこの症状は、脳の特定部位の損傷によって現れます。

多くの患者は、患者の右側に鏡をおいてその人から見た左側を映し出しても、それを左側とは認識しないそうです。そして、「そこにあるものを掴んで」と指示されると、困ったように、鏡の中に向かって手を伸ばすそうです。鏡がどういうものか、わかっていながら。

~*~*~

私はそれを読んだ時、慄然としてしまいました。


半側無視の患者の症例は、「私たちが認識している"世界"は世界そのものではなく、脳が提示する一つの解釈に過ぎない」ということの証拠を我々に突きつけています。

では、脳の欠損のない人が見ているこの世界が、世界の唯一無二の姿だと、どうして言えるでしょう?

赤外線、超音波、磁場・・・

私たちが生身では感知できない情報が、世界には溢れているようです。

それだけではありません。空間の認識についてさえ、この話は疑問を投げかけています。

前、後ろ、上、下、右、左・・・

未来、過去・・・

・・・他には?

私たちにはいったい、世界のどれだけが"見えて"いるのでしょう?

目の見えないアメーバが触覚だけを頼りに認識する世界と、人間が認識する世界には、果たしてどれだけの隔たりがあるのでしょうか。

ともあれ、私たち人間にとっての世界とは、脳が自らに許された能力の範囲で、五感からの入力を元に紡ぎ上げ続ける世界だということは間違いないでしょう。

そして、世界の真の姿とは、永遠に私たちの"手"に触れることさえないのかもしれません。


しかしそれでも人間は、手探りで少しずつ、世界の真の姿を探らずにはいられない生き物なのです。


『脳が自分自身を理解しようと奮闘している。だからこそ神経学はわくわくするほど面白い』 ~ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン

2010年1月22日金曜日

哲学する科学:ミーム工学が開くヒトの新時代

『工学(こうがく、engineering)は、科学、特に自然科学の知見を利用して、人間の利益となるような技術を開発し、製品・製法などを発明することを主な研究目的とする学問の総称である。』 ~ウィキペディア

みなさん、一ヶ月近くのご無沙汰でした。いかがお過ごしでしょうか。

私の方は、少し思うところがあり、用意していたメルマガの原稿をいったん破棄して、別のものをこうして書いています。
これはまだ私が漠然と考えていることでしかないのですが、今後、進め方によっては思わぬ発展を見せる可能性もあるのではないかと考えています。

以下、私がここしばらく考えていたことを書きます。

+-+-+-+-+-+

ミームを操作する学問体系として、「ミーム工学」というものを構築することを提唱したい。

<ミーム工学の必要性>

「ミームは遺伝子に対するDNAのような実態がつかめないから科学の対象とならない」という意見があるが、ヒトが世代を超えて築き上げてきた文明、思想、社会システムなどを見れば、遺伝的経路に拠らないある種の情報が人から人へ伝わり、それが人々の行動に多大な影響を与えているのは明白である。

そしてそれは遺伝子同様、自然選択によって進化しているように見える。しかも、遺伝子とは比較にならない速度で。

(その「情報」をミームと呼ぶかどうかはともかく)これを研究し制御することが、今後の人類の運命に多大な影響を与えるということについて、私は確信を深めている。

そのためにミーム工学(名前が不適切だというなら別の名前でも構わない)というミーム複合体を生みだして広めることは、脳というハードウェアの研究によりミームの正体が解明されることを待たずして、21世紀に人類がもっとも注力すべきことのひとつであろう、と考える。

<ミーム工学とは何か>

まだ具体化しているものではないが、ミームのメカニズムの理解のあるなしに関わらず、ミームの性質を実験などから解明し、その本質的役割と、制御の方法を確立する学問であると定義したい。

たとえば、「外部からある人に入った情報がどのようにその人の行動に影響を与えるのか」「その情報は、その人の中でどのように変異しうるのか、またどのように他の人にコピーされうるのか」「どのような情報が効果的に人を動かすのか」「どのような情報がヒトの社会の中で効果的に増殖するのか」などは、ミームという実態をつかんでいなくても、実験からある程度検証が可能なはずである。

より具体的には、

人から人に直接または間接に伝わる「AをBしろ」または「Xせよ」といったシンプルな命令およびそれを補強する情報の構造を、自然言語に依存しない形で記述する方法を確立することが考えられる。
また、それを自然言語に翻訳し、実際に社会の中に放ってどのように拡散・変異または消滅していくか実験するといったことが考えられる。

*これはブロディの言う「設計ミーム」または「マインドウィルス」をばら撒く恐ろしい行為のように聞こえるかもしれない。
*しかしすでに多くの国の政府や企業がマスメディアなどを通じて日常的に実行していることであると思われる。
*私は、一部の人たちの間ではたぶん、ミーム工学的なものはある程度確立されていて、私たち一般市民はそれに対して無防備な存在なのかもしれないとも考えている。
*もし私が突然不慮の死を遂げたら、それはそうした特権階級が、自分たちの権益を守るために必要なことをしたということなのだろう。…と、これ以上書くとただの陰謀マニアと取られるのでやめておく^ー^)

ともあれ、「科学的良心」を持って事に当たれば、それは原爆を作るのと同義ではなく、一部の人しか持たない知識を一般化して広く知らしめることで、搾取と不公平を取り除くことにもつながる。小学校で「人権」と一緒に「ミーム」を教える日も来るかもしれない。

・・・「工学」とは、科学的知見を利用して、人々の役に立つ技術や製品やサービスを開発・発明する学問だそうである。

私たちが人間であるということは、遺伝子が作った生命というシステムであると同時に、そのシステムのもっとも複雑な産物である脳という生体コンピュータの上で日々形を変えていく情報のかたまりでもあるということである。

その情報とそれが生み出すヒトやヒトの集団の活動が、外から与えられる情報でどう変化するか。
その法則をとらえた上で、そのヒトの集団自体にとって、その知識をどう利用すると、より益となるか。
ヒトやヒトの社会、文化は、情報という側面からみると、どのようにとらえることができるのか。
その知識を利用して、社会は文化をどう変異・発展させられるのか。また、どう変異・発展させるべきなのか。

ミーム工学という学問は、

「私たち人類が、私たち自身とそれを駆動する仕組みを解明し常識化することで、人類全体を次のステージに登らせること」

を可能にすると考える。

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真面目に、もっと勉強して、この分野を切り開くことができたらどんなに素晴らしいだろう…そんな風に考えています。

皆様の率直なご意見をお聞かせいただければ幸いです。

 守本憲一

哲学する科学:生まれ変わり続ける私

少し前になりますが、NHKの番組で哲学者の清水哲郎さんという人が対談番組にでていたのですが、番組ホストを務める爆笑問題の太田さんが、こんなことをいったのが印象的でした。

「人間っていうのは毎日生まれ変わっていると思う。昨日の俺と今日の俺は、もう別の人なんじゃないかってね。」

確かに、私たちは日々、外界から入ってくる情報を取り込み、時々刻々と変わり続けています。

昨日の私と、今日の私。

その差は微々たるものかもしれないけど、確かに違う。


奇しくも、いま私が読んでいる小説も、同じ思いを抱かせるものがあります。


「君が僕を見つけた日」(オードリー・ニッフェネガー作)の主人公は、ストレスを感じると、意に反してタイムトラベルをしてしまいます。


彼はその人生の中で何度となく時間を超え、過去や未来で自分自身や、もう一人の主人公である女性と交流します。

読んでいると、「子供の頃の自分は現在の自分とは別の人間かもな」とか、「出会った頃のあの人ともう一度会ってみたいな」という気持ちが沸き起こってきます。

なぜなら、自分も、大切なあの人も、日々変わり続けているから。


考えてみると、変わり続けているのは、脳の中の情報の構成だけではありません。

私たちの体を構成する全ての細胞は、日々生成死滅を繰り返し、新しいものに取って変わられています。

一人の人間の体を構成する細胞は、6~7年で全て新しいものに入れ替わると言われています。

つまり、7年後のあなたの体は、もう全く新しいものといっても過言ではないのです。


私たちの体を構成する物質は、私たちが生まれてから死ぬまでの間でさえ、どんどん入れ替わっていく。

つまり、「私たちの本質は、物質ではない」ということにならないでしょうか。

では、私たちは一体何からできているというのでしょう。


以前、宇宙の本質は物質ではなく情報であると考えられる、というお話をしました。

私たち人間もまた、生きている短い期間においてさえ、物質的には不変ではありません。

ならばその本質は、遺伝子およびそれが定義する細胞の機能や配列、

そして脳の中に蓄えられ行動を規定するミームとそれが引き起こす行動といった「情報」である、

と私は考えます。


生命の本質もまた情報であるなら、

そして人生の本質は、宇宙の情報処理の一要素に過ぎないなら、

私は何を悩んでいたのだろう?

と、ふっきれたりもします。


しかしその一方で、人生が単なる"計算"の一部なら、悩みが減る分、喜びも割り引かれるのでは?

理解不能な計算の一部に過ぎない人生に意味などないのでは?

そんな思いに囚われることも、正直あるのですが。


…そんな時私は、こんな風に考えます。



人の一生は、宇宙全体の壮大な計算の一部である。

そして、宇宙全体の計算の目的が人智を超えていて、そこから人生の目的が導けないとしても、、、

本質的には情報である私たちの、宇宙全体からみればつかの間の計算に過ぎない人生において…


「喜びを感じることができる」というのは、奇跡と呼ぶべきものなのではないかと。

~~~

毎秒、毎分、毎時、毎日。

毎週、毎月、毎期、毎年。


私たちは、死ぬまでもなく、絶え間なく生まれ変わり続けています。


もうすぐ2010年。

今年の経験した、すべての良いこと、悪いことは、「去年存在した別人」の体験となります。


明日、来週、来年、10年後、そして、人生の最後に・・・

生まれ変わり続ける「私」は、どんな顔を見せてくれるのでしょう。