2009年9月30日水曜日

哲学する科学:意識の起源

まずはじめに、アンケートにお答えいただいた皆様、ありがとうございました。意外と(?)長くない、というご意見が多くちょっとびっくりしました。(もし日刊だったら長い、というご意見も頂きましたが^^;)
これを励みにしてさらに精進したいと思いますので、皆様どうか今後ともよろしくお付き合いくださいますようお願いいたします。


さて今回は、「意識はいつ生まれたのか?」という視点から、意識の本質について考えてみたいと思います。

心理学者ジュリアン・ジェインズは、その著書「神々の沈黙」の中で、≪3000年前の人間は意識を持っていなかった≫と主張しました。その根拠とは、、、


『古代ギリシアの大叙事詩、ホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」に出てくる人間たちは、意識を持たず、裡から聞こえる神々の言葉に従って自動人形のように行動する。これらの古典を研究し、彼が提示した仮説は、「意識は人間が機能する上で特に重要ではなく、<私>という概念は、意識が形成する歴史的産物である。3000年以上前、人間には意識も<私>という概念も、人間が自分の裡に心を持っているという認識もなく、人はただ、自らの裡から聞こえる「神々の声」に従って行動していた。』

さらにジェインズは、
『当時の人間の心は二分されていて、右脳は非言語的な「神の声」を発し、左脳はそれを言語的に解釈して実行していた。しかし、ある時期を境に人々は徐々に神の声を聞くことができなくなっていった。しばらくは、神の声をまだ聞くことができる一部の人たちが、聞こえない人たちに神の託宣を伝える役割を担った。現代では、そのような声が聞こえることがあっても<幻聴>と呼ばれる。』
ともいっています。

何やらトンデモ系の匂いがしてきたぞ?とお思いの方もいらっしゃると思いますが、しかし彼が言うように、私たち人間は実は意識より無意識によって動いているということを私たちはすでに見てきました。
そして、意識の起源についてはジェインズ以外にも同様の意見を持っている人たちがいるようなのです。

科学史家のモリス・バーマンは、ジェインズ同様に意識が誕生したのは約3000年前としながらも、西暦500年から500年ほどの間、意識は再び消滅したのではないかと言っています。
『その時代の人間の行動には、一種機械的でロボットを思わせる特性があった』
そして中世末期、意識は復活したというのですが、彼の見立てでは、それは鏡の発明と深くかかわっているというのです。

つまり、人間は鏡という道具の登場によって、自意識をゆるぎないものとした、というのです。
『自意識の増大と、鏡の製造量の増加、およびその品質の向上とが、時を同じくして急速に起こったことがわかる。』

また、漢字は3000年前より以前から4000文字ほどが存在していたが、「心」という文字が現れたのは3000年ほど前からという話も聞いたことがあります。


実証はなかなか難しい仮説だと思いますし、実際証明された話ではありませんが…しかしとても興味深い仮説ではないですか?

…想像してみてください。


≪3000年より前の世界では、人間には「意識」がなく、「自分は自分だ」とも思わず、「あいつより成功してやる!」とか、「私はどうして不幸なのだろう?」といった考えも抱かず、ただ内なる声に従って生きていた。≫

それは、いったいどんな世界だったのでしょう?

すでに意識を持ってしまった私たちには想像しきれない部分あると思います。

しかし、人間が意識なしでも会話し、社会を作り、働き、子を生み育て、知識や経験を世代を超えて伝え、思考し、生き、そして死んでいくことができたのだとしたら…

赤ん坊は意識を持っていないと言われています。

意識とは、親から子へ、人から人へと受け渡される一種の「知識」のようなものなのでしょうか?

つまり、<私>というものはあるとき誰かが「発明」し、それが会話や本を通じて広まり、鏡の登場によって信憑性を増し、急速に広まっていった、と。

現代においても、<私>という概念を学習したその瞬間から、人は意識を持ち、世界を<内と外>に分け、<自分>と<世界>を別のものとし、その<世界>の中の<自分>の在り方などについて思いを巡らせてゆく…。

…なんとなく、<自他の区別>を自明とする<私>という考え方は、ないほうがもしかしたら世界は良くなるのでは?と考えたくもなります。

「意識のない世界」を体験してみたいと思って止まない今日この頃です。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

哲学する科学:「意識」は無責任?

ちょっとカタい感じが続いたので、今回はちょっと肩の力を抜いていこうと思います。(^-^)

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前回ご紹介したように(読まれていない方はバックナンバーをどうぞ)・・・

人間の意思決定はほとんど無意識の領域にあり、意識はさも自分が決めたように感じているだけ・・・。

という仮説が本当であるなら、なんと幸せなことでしょう!

だって・・・


 失敗しても、
 「もう…無意識ったら、しょうがないなーっ」

 成功したら、
 「偉いぞ、自分!」


というように考えることができるではありませんか!(笑)



そうです。どうかご自分を、暖かく見守ってあげてください!

それこそが意識の果すべき役割かもしれません!(笑)


…いや、たぶん違うとは思いますが、そう考えると失敗もちょっとだけ怖くなくなったりしますよ!

~~~~~

自分を外から眺めると、やはり自由意思も決定に対する責任もあります。

私のメルマガでご紹介した諸説を信じて、

「<私>には何の責任もないし~、見てるだけだし~」

と言って好き放題し始めた人がいたら私、責任問われるんでしょうか?(^-^;)


何にしても、あなたの無意識とあなたの意識は運命共同体です。

そして、「<私>には責任なし!」とタカをくくる思考も、

実は無意識に端を発していると思われますので、

責任が「ある」のに「ない」と言っているだけの人として、

きっちり裁かれてしまうことでしょう。 ・・・ご注意下さい!

~~~~~

・・・えー、冗談はこのくらいにして・・・


私ごとになりますが、ここ1~2年で時間を見つけて本から仕入れた最新の科学的知識を自分なりに取り入れた結果、既成観念や常識がひっくり返るような経験をし、改めて自分の存在や生きる意味などを考えさせられました。

結果として、いまは何か吹っ切れたような新鮮な気持ちで日々を送ることができています。

皆様におかれましても、このメルマガで私がご紹介したことや、これから紹介していく内容の幾分かでもが記憶に残り、それによってなにか毎日が少しでも今までより豊かで素敵なものになったと感じられることを祈りつつ、書き続けています。

~~~~~

おかげさまで読者も少し増えてきたようですので、簡単なアンケートなどにご協力をお願いできないでしょうか。

以下の質問の答えを、mailto:thinking-science@live.jp までお送りください。今後の参考とさせていただきます。

 Q.一回当たりの文章は、長いですか?短いですか?ちょうど良いですか?

 ※個人的には、長くなりがちで読みにくいのではないかと心配しています。そのほか、ご意見・感想などあればどうぞご遠慮なくお書きください。いただいたご意見を参考に、さらに精進したいと思います。

では、また次号でお会いしましょう!

2009年9月28日月曜日

哲学する科学:決断しない意識

前回は、「私たちの意識が見ている≪現実≫は、私たちの無意識が構築する≪仮想現実≫的なもの」(かもしれない)

というお話でした。

今回は、「私たちの≪行動≫も、意識ではなく無意識がほとんどすべて決めている」(らしい)
というお話です。



アメリカの実験神経生理学者ベンジャミン・リベットは実験によって、人間が何かに気がつくのには0.5秒かかるようだということを発見しました。

次に彼が実験で検証しようとしたのは、

「人が何かを「行う」とき、意識より先に無意識が動き出しているかどうか」

ということでした。

そして、結果は「Yes」という答えを示していました。


この実験については、様々な文献がこの実験とその結果を取り上げている有名なものです。ここに、簡単にその概要をご紹介しておきます。

<実験の概要>

人の脳を電気的に観測すると、自発的行為に先立つ「準備電位」というものを観測できる。
被験者は、自分の好きな時に手首または指を急激に曲げるよう指示される。
このとき、被験者は自分がいつそうすると決めたかについて、光の点が2.56秒で一周する時計のような装置を見て、光の点の位置を報告する。
同時に、被験者の脳に取り付けられた電極から動作の「準備電位」を観測し、その時間的関係を調べる。

結果、以下のような順序で物事は起きているということがわかりました。

1.動作準備電位の発生

2.被験者が「今動かすと決断した」という報告

3.実際の動作

これが意味するのは、「意識的な決断に先立って、脳は体を動かす準備を始めている」ということだと、リベットは考えました。


この衝撃的な結果を受けて、多くの研究者が追試をしたり、反論したりしました。

結果の解釈についても様々な意見が出され、決着はまだ見ていないようです。

確かなのは、リベットの仮説は完全に証明されてもいなければ、否定もされていないということだけです。

…なんだか「Xファイル」みたいな書き方になってしまっていますが、これは物証のない純粋な仮説ではなく、ほかの多くの科学者よりも実験を重んじる性質のリベットにより、繰り返された実験結果をもとに導き出された結論であるというところに重みがあります。


この実験結果は果たして、「魂の不在」を意味するのでしょうか?


そして私たち人間には自由意思はない、ということになってしまうのでしょうか?


リベット自身はどう思っていたのか、最後にご紹介して今号を締めくくりたいと思います。

実験結果がしばしば「自由意思不在や人間=機械説、魂の不在の証拠」「観察可能な物質だけが現実に存在するすべてであるとする考え方(唯物論)の証明」のように取りざたされるこの実験を行った張本人のリベットですが、彼は

「唯物論の考え方は、証明された科学的な学説ではなく、決定論的唯物主義は信念の体系である。」
として、魂の存在を支持するかともとれる主張を行っています。

そして、こんな解釈を提示しています。

「原子が単体では持たない性質を複数集まって獲得するように、神経細胞の塊である脳は、全体として単体では示さない特性を示す。その特性によって形作られる≪意識を伴う場≫とでもいうものがあるのではないだろうか。」

そしてこの理論をそれを証明する方法などについても考えていました。

また、先の実験結果についても、「人間の行動は無意識に端を発するが、意識はその決断を拒否することだけはできる。」としています。

すべてを実験により検証する前に、彼は現役を退いています。

しかし、彼が多くの実験で得た結果は、脳のメカニズム(特に意識と無意識がどのように役割を分担し、意識がどのようにたち現れてくるかについて)、理論だけではなく実質的なデータを示したという点で、先駆的なものでした。


21世紀。リベットの残した実験結果と衝撃的な仮説からさらなる答えを見つけるのは、後に続いている研究者たちなのでしょう。



参考文献

マインド・タイム 脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:無意識が紡ぐ世界

『どちらにしても、私たちが見出したある知識によって、世界の現実性=リアリティへの確信が根底から揺らぐのです。』 ~ベンジャミン・リベット


ベンジャミン・リベットは米国の実験神経生理学者です。そして彼は、以下のような疑問を持っていました。

「脳内の神経細胞の物質的活動がいかにして、外界についての感覚的な気づき、考え、美的感覚、ひらめき、精神性、情熱といった、非物質的な現象である主観的な意識経験を引き起こすことができるのか?」

そしてその疑問を解き明かすために、1950年代から30年ほどの間、脳内の精神活動を様々な実験を通して捉えようとしました。そしてそこでわかったことは驚くべきことで、科学者たちの間で大きな議論のもととなりました。


彼が実験で最初に発見したこと。それは・・・


 ≪人間が何かに「気がつく」には、かならず0.5秒かかる。≫


というものでした。

例えば、いま誰かがいきなりあなたの手をつかんだ!としても、それにあなたが気がつくのは、実際につかまれた0.5秒後ということです。

…信じられますか?


では、具体的にリベットがどういう実験を行ったのかごく簡単にご紹介しましょう。

脳に疾患を持つ患者と担当医の協力のもと、患者の皮膚への刺激のタイミングと、患者が感じるタイミング、さらには、脳の感覚野(身体感覚を処理する脳の部位)へ電極を付け、皮膚に刺激を受けたのと同じ電位を発生させ、実際に皮膚に刺激を加えた場合の反応と比較する、といった内容のものでした。

そしてその結果は…

→電極を使って感覚皮質を刺激しても、0.5秒以下なら被験者はなにも感じない。

→感覚皮質を0.5秒以上電気刺激すると、被験者は皮膚を触られていると感じる。

→実際に皮膚を一瞬だけ触ると、感覚皮質は0.5秒活性化され、その後被験者は触られていると感じる。

ということは、触られたという感覚は、実際に触られた瞬間の0.5秒後にしか起きえない、ということになります。


しかし私たちは日常的に、皮膚に触られたら即座に感じるということを経験して「知って」います。上記の実験結果はこれに反するのではないでしょうか?それとも即座に感じるということ自体が錯覚だというのでしょうか?


この疑問に関するリベットの説明を、いきなり手をつかまれた場合に当てはめるとこうなります。

1.いきなり手をつかまれる。

2.0.5秒後に、手をつかまれたと気がつく。

3.脳の中で、手をつかまれた瞬間と気がついた瞬間が一緒だったということにされる。

なんだか、きつねにつままれたような気分になりますが・・・

つまり、私たちの脳(の無意識の部分)は、意識が体験する物語を作り上げている、ということのようです。

言い換えると、意識が見ている世界は、感覚器官からの入力や記憶にある事柄などを材料に、無意識が作り上げた仮想現実である、ということになるのかもしれません。

同じものを見ても、私たちの感じ方は人それぞれです。

それは、私たちが実は世界そのものを見ているのではなく、個性ある私たちの脳が無意識に紡ぐ世界を私たちが見ているからに他ならず、同じ世界はひとつとしてないのです。


最後に、リベットが著書の中で自分の発見の意味について語った言葉を贈ります。

『ある事象が起こった後の時点の意識的なアウェアネスにおける最大0.5秒間の遅延から、多くの哲学的な意味を引き出すことができます。』

『私たちは「今」の経験を生きようとする実存主義的な観点を変えなければなりません。私たちの「今」という経験は常に、遅延しているのです。』

『人それぞれの性格や過去の経験が、それぞれの事象の意識的な内容を変えてしまう可能性もあります。これは、人にはそれぞれ独自の意識的な現実がある、ということを意味します。』


参考文献

マインド・タイム
脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:意識と無意識の役割分担

「意識」に自由意思がないとすると、誰がそれを握っているというのでしょうか。


たとえば、


 今度の週末、ウィンドサーフィンに挑戦してみよう!と決めたのは誰?

 いつも僕の隣にいるこのひとと結婚することを選んだのは?

 明日の朝起きるとき、誰が二度寝の誘惑と戦うの?



脳の中の、実際に決定を下している部分には、名前があります。

それは「無意識」と呼ばれています。


~~~~~~~


現代人であれば、無意識という言葉は聞いたことはあるのではないかと思います。

そして常識的には、だいたいこんな風に理解されているのでは?

≪私たちが意識せずに何かをしたり感じたりすることは、私たちの無意識が行っている≫

たとえば、

 無意識に頭をかいていることに気がつく

 無意識に手が動いて机から落ちるコップをつかむ

 車が突っ込んできて反射的に避ける

れらは私たちの「無意識」が行っていることだと、納得できると思います。

しかし、前回の「意識の帯域幅」で見たように、意識がリアルタイムに処理できることは非常に限られているとすると、ほかのさまざまなこともすべて「無意識」が決めているか、少なくとも決定に多大な関与をしていると考えざるを得ないのです。


 無意識が連休で遊びに行く場所を決める

 無意識が携帯のカメラで写真を撮る

 無意識がとっさの思いつきで目的地の一駅手前で降りてみる


さらに、(次回詳しく見ていきますが)意識が「やる」と決めるより脳の動作準備電位が先に発生することを突き止めたベンジャミン・リベットらによれば、人間の一挙手一投足すべて、まず「無意識」が起動し、「意識」はそれを追認するのみであると言っています。つまり、こんな感じに。


 無意識がボールを投げる(意識がそれを眺め、意識が「自分が投げると決めた」、と錯覚する)

 無意識が歩く(意識がそれを眺め、以下同文)

 無意識が転職を決める(同上)

 織田信長の無意識が天下を統一する(同上)

 オバマ大統領候補が「チェンジ!」という(同上)


そして、創刊直後に何号かに亘ってご紹介したように、人間と同じように動き考えるロボットを作ろうと研究をしているロボット工学の研究者、前野隆司は、

≪「無意識」とは脳というニューラルコンピュータの中の無数のプログラムの連携によって作りだされ、「意識」とはその中の、体験をエピソードとしてまとめ、記憶するのを補助するプログラムにすぎない≫

ということが、研究過程で分かってきたと言っています。


…どうやら、私たちの「意識」の謎に迫るには、それと対をなす「無意識」について、認識を改める必要がありそうです。


次回の『哲学する科学』では、無意識はどのようにして「意識」が見ている「現実」を作り出しているかについて、アメリカの実験神経生理学者、ベンジャミン・リベットの知見をご紹介したいと思います。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

脳はなぜ「心」を作ったのか
前野隆司著
筑摩書房刊

マインド・タイム
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:意識の帯域幅

(少し間が空いてしまいましたが…)

今回は、情報学的な(?)見地から「意識」の限界に迫ってみたいと思います。

今回のタイトルにある「帯域幅」というのは簡単に言うと、一定の時間でどれだけの情報を処理できるか、ということを表す言葉です。

みなさんは、私たち人間が毎秒どのくらいの情報を処理していると思われますか?


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いろいろな計測方法があるかとは思いますが、単純に人間の感覚器官がどのくらいの情報を受け取れる性能があるかを調べると、人は毎秒ざっと1100万ビットもの情報を受け取っているらしいです。(視覚から1000万ビット、その他の感覚器官からは数十万ビットずつ)

…ビットというのは、「1か0か」を表現できる、情報の最小単位です。これが多数集まることで、より複雑な情報を表現することができます。たとえば、8ビットあれば「0から255のいずれかの値」を表現することができます。

しかしながら、私たちが「意識」できるのは、毎秒せいぜい数ビットから数十ビットという実験結果が多く報告されています。

もしそれが事実なら、実に毎秒受け取っている情報の百万分の一程度しか、意識は見ていないということになります。

そしてこのことは、以下のような簡単な実験をしていただければ実感することができてしまうのです。


 まず(安全な場所で)目をつぶってください。

 そして、一瞬だけ目を開けてまた閉じてください。

 さあ、何が見えましたか?


目を開けたのはおそらく0.1秒前後でしょうか。しかし、何か見えたかを一つずつ意識できるのは、そのあと何秒もかかったのではないでしょうか。

見えたものを思い返している間、1秒あたりにどれだけのものを意識できましたか?

1秒間にどれだけの情報を意識が受け取ったかをビット数に換算するにはちょっと工夫が要りそうですし、脳自体がどのように情報を格納しているかが明白でない以上は厳密な数字は出せませんが、それでも「そんなに多くない」ということは肌で感じられたのではないでしょうか?


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翻って、意識がわずかな情報しか受け取っていないにも関わらず、どうやら私たち人間は日々、1秒当たり数ビットの処理だけしているとはとても言えないようなことを行っています。

例えば…

音楽を聴いて、人間の歌声を含む複数の楽器が奏でる大量の情報をリアルタイムに処理して、得も言われぬ「感動」を体験するには、毎秒数十ビット処理するだけではとても足りそうにありません。ということは、音楽を聴いたときの感動は、脳の無意識の領域で形作られていると考えられるのではないでしょうか?

車や自転車を運転しているとき、目に入るすべて、聞こえる音、ハンドルから伝わる路面の感触を手に受け取り、車自体の動きを全身で感じ、それらすべての情報をもとに最適な判断を下し、同時に手や足を連動させてハンドル、ペダルなどを操作して、目的の場所へ安全に車を移動させているのは、一体誰なんでしょう?

テニスをしているとき、ボールの動きや相手選手の動き、自分足元の土や芝の感触、ラケットの握り具合などを受け取り、絶妙に体を動かし、一秒もかからずに相手選手のラケットからこちらのコートに飛んでくるボールを打ち返しているのは?


…意識がわずかな情報しか受け取っていないとすると、意識はこれらの複雑な処理を行っていないということになってしまいます。

意識が見ていないところで、これほど複雑な処理をこなしているのはいったい誰なのでしょうか?



簡単に言ってしまえば、私たちの中の意識ではないもの、つまり「無意識」ということになります。



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参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

哲学する科学:自由意思って何だろう?

今回からの数号では、前回までの話に出てきた「自由意思は存在しないかも?」というお話をしていきたいと思います。

その前にまずは、自由意思ってなんだ?ということを確認しておきましょう。

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例えばあなたが今、お蕎麦屋さんにいてメニューを見ていると想像してください。メニューには、ざるそば、たぬきそば、きつねうどん、かつ丼セットがあるとします。

さて、あなたは何を注文するでしょうか?

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もし「あなたに自由意思がある」とすれば、上記の状況では

「あなたはメニューの中のどれでも選べる」

ということを意味します。

しかし、もしあなたに自由意思がないとしたら、「あなたは選ぶことはできない」ということになります。



そして・・・「私たちの意識には自由意思はない」というのが、最近私が頻繁に接する、様々な科学者の学説にでてくる主張です。

もちろん、まだ証明されている主張ではありませんが、、、

そういう可能性もあるということすら、あなたは受け入れられるでしょうか?


つまり・・・

志望校や会社を選んだのも、

今乗っている車を選んだのも、

恋人や人生の伴侶を選んだのも、

すべて、意識ではない。ということです。信じられますか?


=====


もし私たちの「意識」が<脳内でエピソード記憶をするために脳全体の活動を自分がやっていることと錯覚している一つのプログラムにすぎない>のだと仮定すると、実際に決断を下しているのは脳の中にある「意識」以外の無数のプログラムたちということになります。つまり、「意識に自由意思はない」ということになります。

しかし、私たちが「私は私」と感じているのは「意識」であるとするなら、つまり、私というものは意識の中にしかないとするなら、どうでしょうか?たとえば、<私>というものは「意識」が体験を記憶するために用意した仮想の主体とするなら、そもそもそれが自由意思をもてるはずもありません。<私>を感じている「意識」を「私」と捉えてみても、やはりそこには自由意思はないわけです。

そして、時々刻々と無数の判断を下している脳の中の「意識」以外のプログラムたちは、「私は私」などとは考えておらず、小さな仕事の単位をこなす無数のプログラムがそれぞれの仕事をこなしているだけであると、多くの科学者が考えているようです。


こういう考え方を信じるとするなら、私たちは毎日起きるときに、自分で決断して起きているわけではないということになります。

しかしこの帰結は私たちの直観と真っ向から対立します。私たちのほとんどは、生まれてからずっと「私は私であり、私の決断はすべて私が下しているのだ」と信じて生きてきていました。だから、簡単には「私を私だと思っているこの<私>は、実は何も決めてないらしいですよ?」と言われても、「あんた、頭おかしいんじゃないの?」と口走ってしまうとしても、まったく正常な反応だと申し上げましょう。


でも、例えば…


ある朝、目が覚めて、「目覚まし時計を止めて」「さて、起きるか!」と考え、「いや、もうちょっと寝てたいな」とも思い、「昨日は何時に寝たっけ?」と自問し、「4時間しか寝てないのかー、じゃあ眠いよね」と睡眠の質を評価し、「そもそも寝るのが遅くなった理由は?」と再び自分に問いただし、「ゲームしてて4時まで起きてるのとか、どうかと思うよ」と自分を責め、「で、起きるの起きないの?」と話を元に戻し…そして「意識」くんは、これらすべてを眺め、最終的に後付けで、「昨日4時まで遊んでて寝不足なので、私は起きることができませんでした」という物語にまとめ上げる。


なんか、思い当たるフシはありませんか?

いや、ゲームして寝坊という物語にではなく、心の中で自問自答する自分を眺めている自分、というあたりに、ですよ。(笑)




次号以降では、「意識に自由意思がないとするなら、私たち人間の中のどの部分が自由意思を担っていると現代科学は考えているのか」について、さらに迫ってみたいと思います。

(つづく)

哲学する科学:自由意思は存在しない?

今回から、メルマガのタイトルを変更しました。題して、「哲学する科学」。科学が哲学的命題に迫り始めた現状をお伝えするこのメルマガにもっともふさわしいタイトルをやっと見つけたと感じています。

引き続き、哲学的な問題を抱えつつも、宗教や既存の哲学には満足できない科学世代のあなたに、科学的な回答の数々をご紹介していく所存です。

今後ともよろしくお願いします!


…ただこのメルマガ、本来は「日刊」ではなく「不定期刊」として登録したもので、しがないサラリーマンである私が時間があるときに、本から得た(私にとっての)驚愕の新事実を時々おすそ分けできればいいな、と思って始めた程度のもので、こんなに毎日ばりばり発行するつもりはありませんでした(汗)

なので、今後はもう少しペースを落として、「持続可能な発行」を模索していきたいと思います。(^^)

どうか皆様、しばらくメルマガが届かなくてもご心配なく。そして突然また、連日届くようになってもびっくりせずにお付き合いください。



さて、前号までは主に慶応義塾大学の前野隆司教授の説く「受動意識仮説」から、「脳は無数のプログラムによって動く機械」で「意識は記憶を助ける小さなプログラムの一つに過ぎず、自由意思は持っていない」。しかし「脳の仕組みが分かったことで鉄腕アトムのような人工的な心は作れる」し「ロボットや動物と共存する手塚治虫的な世界がやってくる予感」すらするという話でした。


しかし、前回までの話の流れの中でさらっと書かれていた、「自由意思は存在しない」的な話が引っかかっている方もいるのではないでしょうか?

と、いうわけで、次回からは「意識」と「自由意思」について、何回かに分けて少し掘り下げてみたいと思います。

(つづく)

科学が哲学(仮):死なない<私>の別の側面と、ロボットや動物と共存する素敵な未来  (哲学する科学 第7号)

このメルマガがスタートしてからの前号まででは、「死んだらどうなる?」という問いから出発し、「死んだらどうなるか本当に気になるのは、体ではなく心」であることを確認したうえで、「死ぬことを心配しているのは心の中の意識の部分」であると考えを進め、結局「意識とは脳が生み出す錯覚」であるがゆえに、「錯覚は死ぬことはない」という話に至りました。

しかし、<私>は錯覚だということを認めたとしても、だから私はしなない、ということでは「私は死んだらどうなるんだろう?」という問いの答えにはなっていない、と感じられた方もおられたかと思います。

実は、私もそう思います。

科学はまだ「私とは何者か?」という問いに決定的な答えを出せてません。私はこのメルマガの中で、様々な答えをご紹介していく予定です。

その中には、あなたにしっくりきて、人生観が変わってしまうようなものもきっとある、あるといいな、と思って書き続けていきます。


ところで・・・

前野説によれば、「とても複雑精緻だけれど、脳も機械に過ぎない。<私>という感覚は実は錯覚で、機械が寿命を迎えて停止すれば、思考も止まる。」ということになります。

とはいえ、前野教授はこうも言っています。

「<私>は錯覚だが、人が生まれてから死ぬまでの間に脳の中のプログラムたちが学習して身につけたものは、人から人へ伝えることができる。だから<私>は死なない。」

さらには、

「脳の仕組みはわかったので人間と同じように心を持ち、感情豊かで思いやりにあふれたロボットは作れる。」

「人間の脳の仕組みが分かったことで、人間はそれほど特別でないということも分かった。このことは、動物たちの地位向上にもつながる。」

といったことも言っています。

そして近い将来、鉄腕アトムのような人と変わらぬ心を持ったロボットが本当に現れ、また犬や猫や野生動物たちの心と人間の心がそれほど大きくかけ離れていないという認識の広がりから動物たちとの関係も大きく見直され、人間とロボットと動物たちが共存する社会がやってくるのではないか、ということも書かれていました。


人間の脳は機械であり、自由意思は幻想で、<私>も錯覚である。という絶望的とも受け取れる仮説は、それを受け入れて乗り越えることで、実に素晴らしい世界への扉を開くことになる。


「人間の尊厳」という言葉はきっと形を変え、上記のような未来でも、つかわれ続けていることでしょう。

私はそう信じます。

科学が哲学(仮):<私>は実在しない?  (哲学する科学 第6号)

ロボット工学者の前野教授は、意識は人の体験をエピソードとして記憶するための脳の機能に過ぎない、と言います。では、意識が感じる<私>とは、いったい何なのでしょうか?

前野教授はこう言っています。

XXXXXXXX
前野隆司の<私>も、隣の住人の<私>も、ほぼ同じ、脳に書き込まれた単純な錯覚の定義に従って生み出されたクオリアだ。一人の人間に、一つの<私>の定義があり、みんな同じように<私>という自己意識のクオリアを感じるように作られている、というだけの話なのだ。古今東西、何十億年という歳月と何十億人という世界の広がりの中で、あらゆる人の<私>は、すべて同じような、無個性な錯覚の定義の結果に過ぎないのだ。
XXXXXXXX

クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのもの、と教授は定義しています。

つまり<私>というのは、意識が記憶にしおりとして挿入する「クオリア」の一種で、「クオリア」とは結局のところ意識が体験を記憶し検索するのに都合がいいようにメリハリをつけるためのしるしでしかなく、すなわち実態のない錯覚である、ということです。

人間の「意識」は言ってみれば、「記憶補助プログラム」であり、<私>は錯覚・・・

しかし、私たちは日々さまざまなことを考え、決断を下し、いろいろな出来事に感動し、泣いたり笑ったりしています。これは意識の働きではないのでしょうか?

前野教授は、考えるのも決断するのも、泣くのも笑うのもすべて、無意識の領域にいるプログラムたちの活動であり、意識は川の下流で、流れてくるそれらを眺め、自分がやったことであるように錯覚しているだけだといいます。


単に結論だけ聞いても信じられないでしょうから、詳しくは前野教授の「脳はなぜ心を作ったか」を読んでいただくとして、一つだけこの仮説を支持する一つの実験のお話をしておきます。

(キムタク主演のドラマ「Mr.BRAIN」でも取り上げられたそうですが…)

アメリカの神経生理学者、ベンジャミン・リベットは、脳外科手術の患者の協力を得て、患者が指を動かそうとした瞬間と、脳に発生する「動作準備電位」の関連を調べたそうです。

驚いたことに、患者が「動かそう!」と思った瞬間よりも0.5秒ほど早く、動作を準備する電位が脳の中に現れることがわかりました。


これは、意識より先に、無意識の領域にいる別の脳内プログラムがすでに指を動かす決断を下してしまっているということを裏付けるものと考えられます。

そして意識は、後付けで「私が今、動かそうと思った!」と思っているだけで、それは、出来事(この場合は、「指を動かそうと思って動かしたこと」を記憶するためにそう思い込んでいるだけだ、と。

だから、<私>は単なる錯覚であり、ゆえに死ぬこともない、と。

科学が哲学(仮):意識とは何か (哲学する科学 第5号)

前回までで、「私は死んだらどうなるのだろう?」という問いは、「(私を私として私たちに感じさせている)意識とは何者?」というところまででした。

意識がなければ、「私は○○したら××かい?」とか考えることもないわけですから、そこを避けては答えにたどり着けません。

さて、意識とは何でしょう??



これには諸説ありますが、残念ながらまだ確定的な答えはでていないようです。
意識の謎は、21世紀の人類にとっての大きなテーマとも言えるでしょう。

そして、「意識とは何か」という問いは、哲学が追い求めている「私は一体何者なのか」という問いにも限りなく近いものです。
多くの科学者や哲学者が様々な説明を試みているようですが、ここではまず、前述した前野教授の説をご紹介します。

××××××××
意識(「私」)とは、脳の活動を要約し、エピソードとして記憶するためだけにある。
××××××××

へーっ(笑)。

しかし、記憶にとって重要な働きをしているのはいいとして…だけ、ってことはないでしょ?と思われた方もいるでしょう。
しかし、本質的にはそれだけだというのが教授の仮説です。

…では、その私たちが感じとっている<私>という存在は、一体何だというのでしょう?

………それは、「錯覚」らしいのです。

(つづく)

科学が哲学(仮):意識とは何か  (tetugakusuru kagaku

科学が哲学(仮):脳の中の心  (哲学する科学) 第4号)

(前回からのつづき)
脳が無数のプログラムによって動いているなら、心はどこに存在するのでしょうか。

脳科学者の松本元さんによると、心は以下の5つの要素から成り立っているそうです。

「知(知覚)」「情(感情・情動)」「意(意思)」「記憶」「意識」

4つ目までは脳の大きな機能とも言えるもので、脳のどの辺りが関わっているかも解明されてきていますが、5つ目の「意識」というのがくせものです。

こと「意識」にかんしては、脳のどの部位の働きかわかっていません。そればかりか、そもそも何のためにあるのかも定かではないのです。

一般には「脳の各機能を統合するためにある」と説明されているようですが、証明はされていません。
しかしながら、私たちが「私は私だ!」と考える時、働いているのは他でもないこの「意識」なのです。


つまり、「私の心は死んだらどうなるんだろう」と気を揉んでいるのは、脳の中の「意識」の部分ということですね。

では、「意識」は人が死ぬとどうなってしまうのでしょうか?

その前に、「私は私だ」と私たちに思わせている「意識」とは、一体なんなのでしょうか?

(またまたつづく)

科学が哲学(仮):心とは何か (哲学する科学 第3号)

「死んだら私はどうなるんだろう?」

…と、考えているのは私たちの心です。

では、その心とは何なのでしょう?

前回ご紹介した慶應義塾大学の前野隆司教授の説によれば……

――――――
人間と同じように心を持つロボットを作ろうとした慶應大の前野隆司教授は、まず人間の心を理解する必要に迫られました。

人間が物を考える時に働くのは脳である、ということに異論を唱える人は現代においては少数派だと思います。
前野教授もそう考え、脳がどうやって周りの世界を捉え、どうやって「死んだらどうなるんだろう?」などと考えるのか、その仕組みを理解しようと勤めました。

脳(大脳)は、たくさんの神経細胞<ニューロン>が集まってできた<ニューラルネットワーク>です。
生まれた時には、そこには殆ど何もプログラムされていない状態、つまり白紙のような状態ですが、脳は驚異的な学習能力を持っていて、感覚器官からの入力をもとに日々変化し続けていきます。
大脳におけるそうした学習は、ニューラルネットワークの中に次々と小さなプログラムを作り、それらを連携させることで達成されていくとのこと。
つまり言い換えると、人間の脳はコンピュータと非常に似ていて、新しいプログラムをインストールされながらそのプログラムに従って動作するシステムだといえますね。
ただしコンピュータと違い、人間の脳は自分で自分のプログラムをどんどん書き換え、進化し続けるというところが大きな違いです。また、動作速度はコンピュータの方が既にかなり早いですが、同時に動かせるプログラムの数は今のところ脳の方が圧倒的に多いというのも大きな違いです。

さて、脳の仕組みの話はひとまず置いて、「心とは何か」に話を戻しましょう。

脳が無数のプログラムで出来ているなら、それはどうやって心を形作っているのでしょうか?

(つづく)

科学が哲学(仮):死んだらどうなる?  (哲学する科学 第2号)

「私は死んだらどうなってしまうんだろう?」

多くの人が一度は抱いただろうこの疑問の答えは、ロボット工学者の前野隆司教授によれば、「私は死なない」となる。

何故か?

それを理解するには、「私とは何か?」というもっと(最も?)難しいテーマに踏み込むことになる。(゜o゜)ノ

――――――――

その前に………

単純に、「人間は物質のかたまりであるからして、死んだらバクテリアが分解して終わり。」という考え方もある。
または、「火葬にされて、灰になる。」 現代の日本では、この場合の方が多いですね。

これらの答えはある意味で正しいです。
質問が「人間の体は死んだらどうなるんだろう?」であれば。

しかし、多くの人はそれでは納得しないでしょう。
何故なら、私たちが「死んだらどうなるんだろう」と考えるとき、厳密に言えばそれは、

「「私は死んだらどうなるんだろう?」と思っている私の心はどうなるんだろう?」

ということでしょうから。ですよね?

質問が「死んだら心はどうなるんだろう?」であるなら、まずは「心とは何か」を大雑把にでも定義しなければなりません。

というわけで次回はちょっと回り道をして、「心とは何か」について少し書いてみたいと思います。

科学で哲学(仮)  (哲学する科学 第1号)

発行日時:2009/06/29 11:50科学で哲学(仮)

本文:

皆様ご購読ありがとうございます。
このメルマガは、最近私がいろいろな本を読んで知った、「哲学的な疑問に対する科学的答え」に関する話題を中心にお届けします。

人間とは何か?

意識とは?

自由意思とは?

文化とは?

宇宙とは??

といった問いに対する答えを、科学的な切り口でのいくつかの答えをご紹介することで、何かのお役に立てれば幸いです。


皆さんは子供のころ、「死んだらどうなるんだろう」と考えて眠れなくなったことはありませんでしたか?
私は、「ノストラダムスの大予言」という本を父から借りて読み1999年に世界が滅ぶと〈知り〉、「ねぇ、僕はおじいさんになるまで生きられないの?」と、泣きそうになりながら両親に何度も聞いたことを今でも思いだせます。


ロボット工学を研究している慶應義塾大学の前野隆司教授も、その著書「脳はなぜ心を作ったか?〈私〉の謎を解く受動意識仮説?」の中で、「子供のころ、死んだら私はどうなってしまうんだろう」と考えていたそうです。
そして、「私の心はなぜ、世界中のたくさんの人間の中で、この体を選んで宿ったのだろう。」とも考えていたそうです。

その答えは、彼が大人になり、人間のようなロボットを作る研究の道に進み、その頭脳をどう作るかを考えていく過程で見つかりました。

(つづく)