2009年9月28日月曜日

科学が哲学(仮):<私>は実在しない?  (哲学する科学 第6号)

ロボット工学者の前野教授は、意識は人の体験をエピソードとして記憶するための脳の機能に過ぎない、と言います。では、意識が感じる<私>とは、いったい何なのでしょうか?

前野教授はこう言っています。

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前野隆司の<私>も、隣の住人の<私>も、ほぼ同じ、脳に書き込まれた単純な錯覚の定義に従って生み出されたクオリアだ。一人の人間に、一つの<私>の定義があり、みんな同じように<私>という自己意識のクオリアを感じるように作られている、というだけの話なのだ。古今東西、何十億年という歳月と何十億人という世界の広がりの中で、あらゆる人の<私>は、すべて同じような、無個性な錯覚の定義の結果に過ぎないのだ。
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クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのもの、と教授は定義しています。

つまり<私>というのは、意識が記憶にしおりとして挿入する「クオリア」の一種で、「クオリア」とは結局のところ意識が体験を記憶し検索するのに都合がいいようにメリハリをつけるためのしるしでしかなく、すなわち実態のない錯覚である、ということです。

人間の「意識」は言ってみれば、「記憶補助プログラム」であり、<私>は錯覚・・・

しかし、私たちは日々さまざまなことを考え、決断を下し、いろいろな出来事に感動し、泣いたり笑ったりしています。これは意識の働きではないのでしょうか?

前野教授は、考えるのも決断するのも、泣くのも笑うのもすべて、無意識の領域にいるプログラムたちの活動であり、意識は川の下流で、流れてくるそれらを眺め、自分がやったことであるように錯覚しているだけだといいます。


単に結論だけ聞いても信じられないでしょうから、詳しくは前野教授の「脳はなぜ心を作ったか」を読んでいただくとして、一つだけこの仮説を支持する一つの実験のお話をしておきます。

(キムタク主演のドラマ「Mr.BRAIN」でも取り上げられたそうですが…)

アメリカの神経生理学者、ベンジャミン・リベットは、脳外科手術の患者の協力を得て、患者が指を動かそうとした瞬間と、脳に発生する「動作準備電位」の関連を調べたそうです。

驚いたことに、患者が「動かそう!」と思った瞬間よりも0.5秒ほど早く、動作を準備する電位が脳の中に現れることがわかりました。


これは、意識より先に、無意識の領域にいる別の脳内プログラムがすでに指を動かす決断を下してしまっているということを裏付けるものと考えられます。

そして意識は、後付けで「私が今、動かそうと思った!」と思っているだけで、それは、出来事(この場合は、「指を動かそうと思って動かしたこと」を記憶するためにそう思い込んでいるだけだ、と。

だから、<私>は単なる錯覚であり、ゆえに死ぬこともない、と。

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