2009年9月28日月曜日

科学が哲学(仮):死なない<私>の別の側面と、ロボットや動物と共存する素敵な未来  (哲学する科学 第7号)

このメルマガがスタートしてからの前号まででは、「死んだらどうなる?」という問いから出発し、「死んだらどうなるか本当に気になるのは、体ではなく心」であることを確認したうえで、「死ぬことを心配しているのは心の中の意識の部分」であると考えを進め、結局「意識とは脳が生み出す錯覚」であるがゆえに、「錯覚は死ぬことはない」という話に至りました。

しかし、<私>は錯覚だということを認めたとしても、だから私はしなない、ということでは「私は死んだらどうなるんだろう?」という問いの答えにはなっていない、と感じられた方もおられたかと思います。

実は、私もそう思います。

科学はまだ「私とは何者か?」という問いに決定的な答えを出せてません。私はこのメルマガの中で、様々な答えをご紹介していく予定です。

その中には、あなたにしっくりきて、人生観が変わってしまうようなものもきっとある、あるといいな、と思って書き続けていきます。


ところで・・・

前野説によれば、「とても複雑精緻だけれど、脳も機械に過ぎない。<私>という感覚は実は錯覚で、機械が寿命を迎えて停止すれば、思考も止まる。」ということになります。

とはいえ、前野教授はこうも言っています。

「<私>は錯覚だが、人が生まれてから死ぬまでの間に脳の中のプログラムたちが学習して身につけたものは、人から人へ伝えることができる。だから<私>は死なない。」

さらには、

「脳の仕組みはわかったので人間と同じように心を持ち、感情豊かで思いやりにあふれたロボットは作れる。」

「人間の脳の仕組みが分かったことで、人間はそれほど特別でないということも分かった。このことは、動物たちの地位向上にもつながる。」

といったことも言っています。

そして近い将来、鉄腕アトムのような人と変わらぬ心を持ったロボットが本当に現れ、また犬や猫や野生動物たちの心と人間の心がそれほど大きくかけ離れていないという認識の広がりから動物たちとの関係も大きく見直され、人間とロボットと動物たちが共存する社会がやってくるのではないか、ということも書かれていました。


人間の脳は機械であり、自由意思は幻想で、<私>も錯覚である。という絶望的とも受け取れる仮説は、それを受け入れて乗り越えることで、実に素晴らしい世界への扉を開くことになる。


「人間の尊厳」という言葉はきっと形を変え、上記のような未来でも、つかわれ続けていることでしょう。

私はそう信じます。

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