2009年9月28日月曜日

哲学する科学:意識の帯域幅

(少し間が空いてしまいましたが…)

今回は、情報学的な(?)見地から「意識」の限界に迫ってみたいと思います。

今回のタイトルにある「帯域幅」というのは簡単に言うと、一定の時間でどれだけの情報を処理できるか、ということを表す言葉です。

みなさんは、私たち人間が毎秒どのくらいの情報を処理していると思われますか?


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いろいろな計測方法があるかとは思いますが、単純に人間の感覚器官がどのくらいの情報を受け取れる性能があるかを調べると、人は毎秒ざっと1100万ビットもの情報を受け取っているらしいです。(視覚から1000万ビット、その他の感覚器官からは数十万ビットずつ)

…ビットというのは、「1か0か」を表現できる、情報の最小単位です。これが多数集まることで、より複雑な情報を表現することができます。たとえば、8ビットあれば「0から255のいずれかの値」を表現することができます。

しかしながら、私たちが「意識」できるのは、毎秒せいぜい数ビットから数十ビットという実験結果が多く報告されています。

もしそれが事実なら、実に毎秒受け取っている情報の百万分の一程度しか、意識は見ていないということになります。

そしてこのことは、以下のような簡単な実験をしていただければ実感することができてしまうのです。


 まず(安全な場所で)目をつぶってください。

 そして、一瞬だけ目を開けてまた閉じてください。

 さあ、何が見えましたか?


目を開けたのはおそらく0.1秒前後でしょうか。しかし、何か見えたかを一つずつ意識できるのは、そのあと何秒もかかったのではないでしょうか。

見えたものを思い返している間、1秒あたりにどれだけのものを意識できましたか?

1秒間にどれだけの情報を意識が受け取ったかをビット数に換算するにはちょっと工夫が要りそうですし、脳自体がどのように情報を格納しているかが明白でない以上は厳密な数字は出せませんが、それでも「そんなに多くない」ということは肌で感じられたのではないでしょうか?


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翻って、意識がわずかな情報しか受け取っていないにも関わらず、どうやら私たち人間は日々、1秒当たり数ビットの処理だけしているとはとても言えないようなことを行っています。

例えば…

音楽を聴いて、人間の歌声を含む複数の楽器が奏でる大量の情報をリアルタイムに処理して、得も言われぬ「感動」を体験するには、毎秒数十ビット処理するだけではとても足りそうにありません。ということは、音楽を聴いたときの感動は、脳の無意識の領域で形作られていると考えられるのではないでしょうか?

車や自転車を運転しているとき、目に入るすべて、聞こえる音、ハンドルから伝わる路面の感触を手に受け取り、車自体の動きを全身で感じ、それらすべての情報をもとに最適な判断を下し、同時に手や足を連動させてハンドル、ペダルなどを操作して、目的の場所へ安全に車を移動させているのは、一体誰なんでしょう?

テニスをしているとき、ボールの動きや相手選手の動き、自分足元の土や芝の感触、ラケットの握り具合などを受け取り、絶妙に体を動かし、一秒もかからずに相手選手のラケットからこちらのコートに飛んでくるボールを打ち返しているのは?


…意識がわずかな情報しか受け取っていないとすると、意識はこれらの複雑な処理を行っていないということになってしまいます。

意識が見ていないところで、これほど複雑な処理をこなしているのはいったい誰なのでしょうか?



簡単に言ってしまえば、私たちの中の意識ではないもの、つまり「無意識」ということになります。



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参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

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