2009年9月28日月曜日

哲学する科学:自由意思って何だろう?

今回からの数号では、前回までの話に出てきた「自由意思は存在しないかも?」というお話をしていきたいと思います。

その前にまずは、自由意思ってなんだ?ということを確認しておきましょう。

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例えばあなたが今、お蕎麦屋さんにいてメニューを見ていると想像してください。メニューには、ざるそば、たぬきそば、きつねうどん、かつ丼セットがあるとします。

さて、あなたは何を注文するでしょうか?

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もし「あなたに自由意思がある」とすれば、上記の状況では

「あなたはメニューの中のどれでも選べる」

ということを意味します。

しかし、もしあなたに自由意思がないとしたら、「あなたは選ぶことはできない」ということになります。



そして・・・「私たちの意識には自由意思はない」というのが、最近私が頻繁に接する、様々な科学者の学説にでてくる主張です。

もちろん、まだ証明されている主張ではありませんが、、、

そういう可能性もあるということすら、あなたは受け入れられるでしょうか?


つまり・・・

志望校や会社を選んだのも、

今乗っている車を選んだのも、

恋人や人生の伴侶を選んだのも、

すべて、意識ではない。ということです。信じられますか?


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もし私たちの「意識」が<脳内でエピソード記憶をするために脳全体の活動を自分がやっていることと錯覚している一つのプログラムにすぎない>のだと仮定すると、実際に決断を下しているのは脳の中にある「意識」以外の無数のプログラムたちということになります。つまり、「意識に自由意思はない」ということになります。

しかし、私たちが「私は私」と感じているのは「意識」であるとするなら、つまり、私というものは意識の中にしかないとするなら、どうでしょうか?たとえば、<私>というものは「意識」が体験を記憶するために用意した仮想の主体とするなら、そもそもそれが自由意思をもてるはずもありません。<私>を感じている「意識」を「私」と捉えてみても、やはりそこには自由意思はないわけです。

そして、時々刻々と無数の判断を下している脳の中の「意識」以外のプログラムたちは、「私は私」などとは考えておらず、小さな仕事の単位をこなす無数のプログラムがそれぞれの仕事をこなしているだけであると、多くの科学者が考えているようです。


こういう考え方を信じるとするなら、私たちは毎日起きるときに、自分で決断して起きているわけではないということになります。

しかしこの帰結は私たちの直観と真っ向から対立します。私たちのほとんどは、生まれてからずっと「私は私であり、私の決断はすべて私が下しているのだ」と信じて生きてきていました。だから、簡単には「私を私だと思っているこの<私>は、実は何も決めてないらしいですよ?」と言われても、「あんた、頭おかしいんじゃないの?」と口走ってしまうとしても、まったく正常な反応だと申し上げましょう。


でも、例えば…


ある朝、目が覚めて、「目覚まし時計を止めて」「さて、起きるか!」と考え、「いや、もうちょっと寝てたいな」とも思い、「昨日は何時に寝たっけ?」と自問し、「4時間しか寝てないのかー、じゃあ眠いよね」と睡眠の質を評価し、「そもそも寝るのが遅くなった理由は?」と再び自分に問いただし、「ゲームしてて4時まで起きてるのとか、どうかと思うよ」と自分を責め、「で、起きるの起きないの?」と話を元に戻し…そして「意識」くんは、これらすべてを眺め、最終的に後付けで、「昨日4時まで遊んでて寝不足なので、私は起きることができませんでした」という物語にまとめ上げる。


なんか、思い当たるフシはありませんか?

いや、ゲームして寝坊という物語にではなく、心の中で自問自答する自分を眺めている自分、というあたりに、ですよ。(笑)




次号以降では、「意識に自由意思がないとするなら、私たち人間の中のどの部分が自由意思を担っていると現代科学は考えているのか」について、さらに迫ってみたいと思います。

(つづく)

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