前回は、私たちの脳の中の、ミームの組み合わせが私たちを規定しているのではないか?というお話でした。
今回は、ミーム学を使って、以下のような哲学的な問いにどう答え得るかを、ご紹介しましょう。
「私」とはいったい何なのか?
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ブラックモアはまず、物理的な体とは分離した「私」という実体は確認不能であるがゆえに存在しない、というところから議論を始めています。
確認できたらそれは物理的な実体の一部であるし、物理的でない存在が物理的な実体である体に作用する方法が理解できないとして、「私」は物理的な体の中のどこかにあると推論しています。
物理的な体のどこかに「私」がいるのであれば、それは脳の中であると思われますが、「私」=「ニューロンの塊(物理的な脳)」という説にも異を唱えます。
つまり、脳はハードウェアにすぎないということを言っています。(これは暗に「私」とは脳というコンピュータの中のソフトウェアであると言っていることになりますね。)
しかし、ブラックモアはこの脳の中の「私」の存在にも疑問を呈します。
ここで一つ、ブラックモアに倣って実験をしてみましょう。
→このメルマガの中から、≪存在≫という単語を探してみてください。
…
見つかりましたか?
さて、あなたが上記の指示を読んでそれを実行した(あるいはしなかった)とき、何が起こったのでしょうか?
細かいことを言えば、「あなたは画面上の文字を解読し、言語中枢で意味を解釈し、実行するかどうか決断し・・・」と、長々書くことができます。
が、ブラックモアは『指示とあなたの脳と体が与えられたとき、動作の全体が自らを生みだした』のだといい、そこに「私」の存在は不要であると説きます。
そして、脳の中に私という主体が存在し、それが見るためのスクリーン(劇場)が脳の中に存在するという学説についても、その論理を採用するなら、脳の中の自分はさらに脳の中の自分を持つ必要が出てきて、さらにその中に・・・という矛盾をはらむので、採用できないとしています。
さらに彼女は、このメルマガでも以前取り上げたリベットの実験を引用し、「私(意識)」が決断する以前に脳は指導しているという実験結果から、「私」が全てを決定しているという感覚は錯覚であるという学説を支持しています。
では、「私」がもし錯覚であるなら、なぜそのような錯覚が必要なのでしょうか?
ブラックモアはまず、既存の「遺伝子淘汰上有利だったから」という説の検証から入ります。
以前紹介した前野学説(「私」はエピソード記憶をする小さなプログラムが便宜上発生させている)もここに含まれるかもしれませんが、「私」をでっちあげることによって、ヒトという種にとって有利なことがあれば、「私」を助長する遺伝子は繁栄し、「私」も繁栄するというものです。
一見、これは正しいように思われますが、ブラックモアは「このような作用をもたらすためだけなら、私たちの「体」や他人の「体」がどうふるまうかをモデル化する脳を持てば十分だったはずで、『物事を信じ、行い、望む、生涯のわたって持続する内なる自己についての偽りの物語』を捏造する必要はなかったのではないかといいます。
では、ブラックモアが考える、「私」の正体とは、どんなものなのでしょうか?
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ミームは私たちの脳の中で複製され、変異し、保持され、さらに複製されていきますが、ミームは他のミームと結びつくことで、より強い「感染力(複製されやすさ)」を獲得していきます。
複数のミームが結びついたものを「ミーム複合体」と呼びます。(例えば≪温暖化を防ぐために行動しよう≫というミームは無数のミームが含まれていて、その組み合わせが強力な「複製されやすさ」を生みだし、このミーム複合体を強力なものにしています。)
そして、ブラックモアは「私」はその中でも最も強力な「ミーム複合体」である、と説明しています。
『自己(私)は巨大なミーム複合体―――おそらくすべての中でもっとも狡猾でもっとも広く蔓延しているミーム複合体である。』 ~スーザン・ブラックモア
つまり、ミーム学的にいえば、「私」という錯覚は、ミーム淘汰上有利であるがゆえに生まれ、生き残り続けている、ということです。
次回、もう少しこの≪自己≫というミーム複合体について、考えてみましょう。
参考文献
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊
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