2009年10月3日土曜日

哲学する科学:「意識」「無意識」「世界」

みなさん、こんにちは。

ここ数号では、意識と無意識についての学説をいくつかご紹介することで、私たち人間の自由意思はどこにあるのか、という問題に迫ってみました。

結論は・・・未だ科学者たちが追求している最中ですが、わかってきていることを簡単にまとめてみると、

 私たちは自分たちを「意識ある存在」であると感じていて、その「意識ある自分が自身の行動を決定している」と考えがちですが、実は「意識」はごくわずかなことしか同時に把握できない。

 実際にほとんどのことを把握し、決断しているのは私たちの無意識の部分であるという証拠も多く見つかってきている。私たちの意識は、無意識が決めたことをさも自分がやったことのように、<私>という主人公の物語として記録しているだけである、という意見もある。

 「私は私である」と考える「意識(自意識)」が人間に芽生えたのは、ほんの3000年前である、という説もある。それ以前の世界には人々には意識はなく、心の裡から聞こえる<神>の声に従って活動していたという。


・・・はたして、私たちには自由意思はないのでしょうか?


「意識」と「無意識」を分けて考え、さらに「私=意識」と考えると、答えは「Yes」です。

私たち(意識)は得体のしれない無意識によって動かされている人間という生き物の中にあり、自分では全く制御不能なこの存在が活動するのを眺め、自分がやったことと錯覚して日々を過ごしている、ということになります。

しかし、実は「意識」と「無意識」を分けることはできず、境目のない一つの実体であるとしたら、どうでしょう?

3000年以前の人間たちは誰一人、自分と世界の間に境界線を持たず、世界と一体となって暮らしていたと仮定してみましょう。

その頃の私たちの脳も構造的には今の私たちと変わらず、私たちの脳はある種のコンピュータのようなものとみなすことができ、生来の配線の上に、後天的な学習で無数のプログラムが作られていき、それらが協調して動作することで、私たちは考え、泣き、笑い、怒り、悩み、感動し、また何かを学習し、少しずつ変化しながら、生き続けていたとします。

しかしある時、私たちの中の一人が、自分と世界を区別するという発想を得て、自分に「私」というラベルをつけ、世界とは別のものと定義したとします。

その考え方はなかなかに面白く、それを知る人に時として大きな喜びをもたらしました。それは人から人に広まり、世代を超えて伝わり、やがて、世界中のほとんどすべての人の「心」に入り込み、誰もが「私は私だ」と考えるようになりました。

その考え方はしかし、私たちを不幸にもしました。自他を比べ、優劣を必要以上に気にし、自らの属する世界そのものすらを敵と考えさせることすらあります。

こうして、私たちは「私は私だ。しかし、私とは…いったい何なのだ?」という答えのない問いに向き合うことになったのです。


・・・これは、あくまで私の妄想ですが(笑)、


しかし、本当は意識と無意識は分けることはできず、無意識は体とつながり、体は世界とつながっているとしたら、、、私たちと世界もまた、分けることはできない、と考えることもできます。



19世紀の物理学者で、電気と磁気を統合する電磁気学の基礎を作った物理学者、マクスウェルは次のような言葉を残しているそうです。


「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身より大いなる何者かによって成されたような気がする」


マクスウェルの言った「大いなる何者か」とは、、、

≪それは無意識の領域で膨大な計算をこなし続けている、ニューラルネットワークの中の無数のプログラムたちである≫

ということもできるでしょう。ほんの少し前まで、実際私はこのように考えていました。しかし、


≪私の中の大いなる何者か、それは宇宙そのものである≫


ということも、ひょっとしたらありえるのかな…と、考え始めています。


21世紀の科学が、私がまた宇宙と完全に一つになるそのときまでに、もう少しだけ真実を私に見せてくれますように。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

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