2009年12月6日日曜日

哲学する科学:魔法としての宇宙

2週間のご無沙汰でした。皆様、いかがお過ごしでしょうか?

前回書いた、

「メルマガに書いてある言葉を読むだけで、あなたが変わる。」

っていう話・・・

なんだか魔術めいて聞こえませんでしたか?

正直自分でも、なんだか自分が"アヤシイ宗教"の教祖様になったような気さえしました。^^;

しかし、「宇宙はすべて情報からできている」という説に従うなら、アヤシイ話も全部、あなたにとっての"現実"なのです。

というわけで、今回はもう少し、科学的な"現実"の定義についての考察をしてみたいと思います。

そこからあなたが何かしら、哲学的な気づきをお持ち帰りいただければこれ幸い。それでは、どうぞ!

~~~

私たち一人ひとりにとっての"世界"とは、私たちの脳の中の情報にすぎず、本当の世界は、私たちには決してみえず、触れないところにあります。

「実際に物に触れるよ?ほらほら」

といいながら何かを触っている方もいらっしゃるかもしれませんが、それは触覚で得た情報を脳が解釈したものを感じているにすぎません。


つまり、私たちの脳が、

目に見えるもの、聞こえている音、食べ物の味や何かを触った感触、重力の感覚など…

これらを総合して、一つの世界という解釈を紡ぎだしているわけです。

そして、その背後にある宇宙の真の姿は、どんなに科学が進歩しても、知ることができない。

私もあなたも、「世界はたぶんこうなっているのだろう」と、日々推論しているに過ぎないのです。そして、それが私たちにとっての、世界のすべてです。


脳が解釈する世界が私たちが知ることができる全てであるならば、

私たちの脳の中の世界こそが、私たちそれぞれにとっての"現実"である、と考えるしかないでしょう。

これを「現実」と呼ぶことに違和感があるのであれば、別の言葉に言い換えていただいても構いません。
といっても、"現実的"には、「その世界」の中で私たちは生きるしかないのです。


人の数だけ、世界があり、真実がある。

これは、間違いないことだと、私(という情報のかたまり)は、信じています。


つまり私は、「そういう宇宙」に住んでいるというわけです。

(そしてこれを読んだあなたの「宇宙」も、少しだけ私の宇宙に似たものになったはずですが ^^)



魔術の話に戻ってみたりしますと。。。^^;


例えば、、、

…ある夕暮れ時。田園風景を見渡す小さな神社にたまたま居合わせた5人の男女。

その全員が、「その場所に神様がいる」という感覚を共有したのなら、その瞬間、そこには実際に神様がいるのです。


・・・私の頭がおかしくなったわけではありませんよ? ^ー^)


ただ単に私は、

「私たちが"世界"と呼んでいるものが、私たち人間の頭の中にしか存在しないとするなら、それが全てだと考えるしかないだろ?」

という話をしているだけです。


例えば、あなたが一人きりの時に空想したものは全て、あなたにとっての"リアル"です。

しかし、一歩あなたが部屋を出て、誰かとその「何か」について話したとき、

相手がその「何か」を認めなければ、その"リアル"は揺らぎます。

人間の集団が大きくなるほど、あなたの頭の中の抽象的な「何か」を維持することは難しくなっていきます。

でもその一方で、長い人間の文化的歴史を経た現在、世界中にいる人間の大多数が共有している「何か」も無数に存在しています。

それらは、果たして人類共通の"現実"として認識されていますが、結局のところ、私たち人類は、数十億の脳の集合体として、世界を推論しているに過ぎない。

ならば、<愛>も、<幸せ>も、<夢>も、<希望>も・・・

<幽霊>のようなものなのではないでしょうか。

ある人間の集団が持つ共通の認識としてのみ、存在するという意味において。

~~~


・・・そして、あなた(の脳)という魔法使いは、あなたのための世界を、今日も紡いでいます。



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哲学する科学:"幸せ"をコントロールする

先号までで、私たちの幸せは、私たちの遺伝子と私たちのミームによってもたらされている、というところまでお話ししました。

私たちが遺伝子だけの指令で生きているなら、私たちは遺伝子のくれる幸せ(ご褒美)のために行動するだけの存在であったかもしれません。


しかし私たち人間は、見聞きする情報(ミーム)によってプログラムされる生き物であり、

新しいミームに触れ、それらの一部を取り込むことで、脳の中のミームの組み合わせを日々更新し、それによって少しずつ振る舞いが変わっていきます。

~~~

脳がミームというプログラムに従って動作し思考するなら、私たち人間はミームたちの奴隷なのでしょうか?

私は、こう考えます。

「私に組み込まれたミームは組み込まれた瞬間からあなたの一部になるので、どのミームを組み込むかは、(私が取り込んだミームを含めた)私に選択権がある。」


へ理屈のように聞こえますか?

でも、「私」というものの存在を定義しようとすると、どこかに線を引くしかありません。

そして、「"私とは何か"と考える私」は、思考を司る脳の中で、思考をプログラムしているミームたちに他ならないのです。


つまり「思考するあなた」は、あなたが取り込んたミームたちの集合であり、

それは自律的に、新しいミームと取り込んだり、持っているミームを手放したりしながら、自分自身を編集し続ける存在です。

そして日々取り込むミームは少しずつですが確実に、「あなた」を変えていきます。


人の話を聞いたり、テレビやネットやメルマガから入ってくる情報に触れるとき、それはあなたは少し変わります。

自分の判断力に自信があったとしても、その「自分」が少しずつ変わっていくのです。


少し慎重になった方がいいかも、と思ったかもしれませんね?

しかし、どの情報(ミーム)を自分の一部にするかも、今まで取り込んだミームたちによって、既にプログラムされているのです。


そう聞くと結局あなたは、「やっぱりミームの奴隷なんじゃないか!」と感じるかもしれません。

しかし、ミームというのは単に、私たちの心の構成単位に名前を付けたものに過ぎません。

言い換えると、私たちの心は、日々情報の断片を心の外側から取り入れ、進化する存在なのです。

~~~

話を最初に戻しましょう。

「哲学する科学」、つまりこのメールマガジンは、あなたを幸せにするかも?と私は書きました。


ここで私が書いたことは、あなたをプログラムするミームたちについての知識です。

その知識は、読んだあなたの脳と将来の行動さえも、知らず知らずのうちに、もうすでに変えたはずです。


あなたは以前より、あなたに流れ込んでくる情報たちに対して無防備ではありません。

そして無意識のうちに(時には意識的に)、将来の自分によってプラスになりそうな情報を選択し、自分の一部としていくことでしょう。


そのことは、きっとあなたをより快適な状態(幸せ)に導くと、私は信じています。


これからも私は、そんな風にあなたを良い方向に変える情報(ミーム)をあなたに届け、あなたをプログラムしていきます。

そしてあなたが変われば、あなたの脳の中の宇宙も変わり、あなたの脳の中の宇宙は、あなたの外に広がる宇宙に影響を及ぼします。


つまり、「哲学する科学」は、宇宙を編集し、世界を変えるメールマガジンなのです。

そしてついでに、あなたを幸せにします。…たぶん、ちょっとだけ。(^ー^)


~~~

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哲学する科学:ミームがくれる幸せ

私たち人間は、<遺伝子がくれる幸せ>を求めて、四苦八苦しています。

遺伝子の乗り物としての生物である以上、ある程度は遺伝子の都合に振り回されるのは、致し方のないところです。

しかし一方で、私たち人間の脳の中には、遺伝子とは無関係の情報たちも溢れています。

それらは、あなたが生まれた後に、脳の中に入ってきた情報たちです。

目から、耳から、他の感覚器官から・・・

文字として、言葉として、他者の行いとして・・・


・・・例えば思春期の頃、あなたが「父の背中が語る何か」に気がついた時、あなたの脳はその「何か」を取り込み、自分のプログラムの大切な一部として組み込み・・・

そしてその瞬間からその「何か」が、あなたの行動に影響を及ぼし始めたはずです。


あるいは、昨日ネットを検索していてたまたま見つけたブログに書いてあって、あなたの心を引き付けた「何か」もまた、あなたの脳に取り込まれ、今ではあなたの一部として動き始めています。

私たちが生きるということは、こんな風に日々、外界からの情報を取捨選択し、私たちの心を、そして未来の自分の行動を作り上げていくプロセスそのものなのです。

そしてこの、「取捨選択される情報」を「ミーム」と呼びます。



ミームは様々な形で日々、私たちの中に入ってきます。

現代社会では、ネットやテレビ、本やメルマガなどからも、洪水のように押し寄せてきます。


そしてそれら無数のミームたちの一部はあなたの心に残り、あなたの一部となっていきます。


〜〜〜

では、その「ミーム」がくれる幸せとは、どのようなものなのでしょうか?

生まれてからこれまで、あなたの中に取り込まれた無数のミームたち。それがあなたの心を形作っています。

あなたが何を信じるか、何を尊いと思うか、それもまた、あなたの心が、どんなミームによって構成されているかで決まります。

(遺伝子が与えてくれる以外の)あなたの心が感じる幸せは、それらのミームたちの囁きなのです。


つまり、ミームがくれる幸せは、<あなた自身の心が感じる幸せ>です。


あなたの心が、あなたの体験を解釈し、深く納得し満足するとき、

それは、あなたの「心の遺伝子」である、ミームがそうさせているのです。

〜〜〜


ところで、ミームも遺伝子と同じく、「利己的」な存在であり、人間の「幸せ」には無頓着です。

それらは単純に、コピーされる機会があればコピーされ、人から人へ、会話やメディアをとうして増殖するのみです。

その結果として、私たちの心が構成されていき、私たちの行動が生まれてきます。


私たちは遺伝子の命令で動くのみならず、脳の中のミームたちの命令で動いているとも言えるのです。


では、私たちはどうしたら自らを幸せに導けるというのでしょうか?


〜〜〜

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哲学する科学:遺伝子がくれる幸せ

あなたにとって、幸せとはなんですか?


愛する人と結ばれること?

おいしいごちそうを毎日食べられれば幸せ?

使いきれないほどの財産を持ち、なんでも買えるようになること?

生命の危険を一切感じることなく、平和に暮らせることかもしれませんね。

それとも、セレブになって世間の羨望を集めることでしょうか。

〜〜〜

ところで、人間が感じる幸せは、大きく2つに分けることができます。

一つは、

<遺伝子が与える幸せ>

もうひとつは、

<ミームが与える幸せ>

です。

〜〜〜

<遺伝子が与える幸せ>とは?

人間は遺伝的に、異性からもてはやされたり、満腹になった時、または暖かな寝床でぐっすり眠るとき、幸福感を感じるようにできています。

その幸福感は、エンドルフィンやエンケファリンなどの脳内の神経達物質の分泌によってもたらされることが分かっています。

これらの神経伝達物質は"脳内麻薬"とも呼ばれ、遺伝的にプログラムされたルールによって分泌され、私たちを一時的にとてもハッピーにしてくれます。

つまり、遺伝子がくれる幸福感とは、遺伝子が生き残るために頑張ったことに対する、私たちへのご褒美なのです。

〜〜〜

私たちが感じる幸せのほとんどは、根源的なレベルでは上記のような<遺伝子がくれる幸せ>です。

言いかえれば遺伝子が、

「よーし、よくやった。偉いぞ、その調子だ。ほれっ、お前の好きな"幸せ"をやろう。」

と、飼い主がペットに好物のエサを投げ与えているのに似ている、とも言えます。

うーん、なんだかちょっと癪に障りますね。。。

しかし、どうあがいても人間は遺伝子の乗り物であることから逃れられない存在なので、残念ながら甘んじて受け入れるしかないのです。


見方を変えると、こんな風にも考えることができます。

遺伝子に組み込まれていますから、<遺伝子がくれる幸せ>は誰に教わらなくても、私たち人間が生まれた瞬間から感じることができます。

(赤ちゃんでも、泣いたり笑ったりできますよね?)

つまり私たちは、生まれながらにして、幸せ(と不安)を感じる能力を持っているとも言えます。^^)

〜〜〜

そうはいっても、私たち人間は<遺伝子がくれるアメとムチ>には、なかなか逆らうことができません。

ただ、それでも人間は他の動物と違い、完全に遺伝子のいいなりというわけではありません。

なぜなら、人間は"ミーム"の乗り物でもあるのですから。

というわけで、次回は<ミームがくれる幸せ>について考えてみましょう。


<「ミームってなんだよ?」とお思いの、最近読者登録して下さったあなたへ>

バックナンバーのこの辺りを読んでいただくと、なんとなくおわかりいただけると思います。

哲学する科学:ミームを知らないの? http://hammerchop-thinking-science.blogspot.com/2009/10/blog-post_6829.html

哲学する科学:心の遺伝子、ミーム http://hammerchop-thinking-science.blogspot.com/2009/10/blog-post_5325.html

〜〜〜

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哲学する科学:"計算する宇宙"編・補足

こんにちは、モリモトケンイチです。(なんとなくカタカナにしてみました)


前回までの"計算する宇宙"編、いかがでしたでしょうか?

前回までのシリーズの結びの部分で私は、「私たちが生きる意味は、自らの内なる宇宙を完成させ、大いなる宇宙に示すことだ。」と書きました。
(最近ご登録された方はぜひ、バックナンバー http://bn.mini.mag2.com/backno/listView.do?magId=M0094525 をご参照ください。)

蛇足かもしれませんが、誤解を避けるために少し補足します。

「自らの内なる宇宙を完成させ、大いなる宇宙に示す」

とは、

「内なる宇宙を完成させるために、精一杯努力しなければならない」

という意味ではなく、むしろ

「あなたは宇宙を丸ごと一つ入れた器のようなもので、ただ在るだけで素晴らしいものなのですよ。」

という意味を込めたものです。


それが、"計算する宇宙"という考え方が私、モリモトケンイチという"計算ユニット"に入力された結果出てきた"計算結果"であり、

「人間とは何か?」

「人が生きる意味は何か?」

という哲学的な問いに対する、一つの答えです。

〜〜〜

というわけで、決して

「すごい宇宙を脳内に構築するために、頑張らないといかんよ」

という話ではありません。

誤解していやな気分になってしまった人もいるかもしれないので、念のためくどくどと書いてしまいました。すみません ^^;)

〜〜〜

「でも、そんなことを言われても、私の悩みは一向に解消されないんだけど?」

とか、

「自分が何者かわかることで幸せになれると聞いたんだけど、全然そんな気がしないね?」

というツッコミもちらほら聞こえてくるようで…


というわけで次回からは、

『哲学する科学』は、あなたを幸せにするかも?

というお話です。


〜〜〜

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2009年11月1日日曜日

宇宙を計算する「私」

子供の頃、つくば科学博覧会というのがありました。いわゆる「科学万博」ってやつですね。

科学をテーマにした様々な展示を、様々な国や企業が出展していました。

その中で忘れられないのが、富士通館でみた、「ザ・ユニバース」という映像作品です。

当時としては画期的な三次元のコンピュータグラフィックスで描かれた、太陽系の歴史でした。

その作品に詰まっていたのは最先端の映像技術だけではなく、私たち人間がどこからやってきたのか、という問いへ果敢に答えようとする"意志"も含まれていました。

それは、こんなナレーションで締めくくられます。


≪・・・私たちは、宇宙から生まれてきたのです。。≫


どういうわけか、幼い"魂"が震えて・・・・そして、涙が溢れました。


~~~~

ええと・・・わたしがお母さんから生まれてきたことは知っていますよ?(見たわけではありませんが ^^;)

でも、ある意味においては確かに宇宙から生まれてきたのは間違いない。

わたしはそう納得し、自分が何者かわかったと感じました。それは、とても幸せな時間でした。

~~~~

しかし、欲張りで忘れっぽいわたしは、しばらくするとこう自問していました。

「宇宙から生まれてきたのはわかった。でも、俺って一体なんなんだ? 何のために存在してるんだ?」

~~~~

セス・ロイドの"宇宙をプログラムする宇宙"を読むと、

「宇宙の本質は物質ではなく、実は情報こそが本質であり、その営みは全て"計算"とみなすことができる」

という考え方が頭の中に入ってきます。


これは一つのパラダイム・シフトであり、私はもう以前のように世界を眺めません。


映画『銀河ヒッチハイクガイド』を見た後の感覚が、今ではより強化された形で戻ってきています。

今度は≪計算中≫というテロップだけでなく、視界にある物体が数字の集まりに見えるし・・・

人と人が会話しているのを見ると、言葉という情報が交換され、脳がそれを取捨選択している様子が見て取れます。

・・・もちろん、いつもではないですけどね。

~~~~

「人間はなぜ生まれてきたの? それに何に意味があるの?」

セス・ロイドの"計算する宇宙"理論を踏まえると、このように考えることができます。


≪宇宙は巨大な量子コンピュータである。≫

≪そして私たちの脳もまた、プログラム可能な計算機(コンピュータ)である。≫


生物は、無生物を使った計算の中から生まれました。

そしてDNAを使った計算の中から、ヒトは生まれました。

人間より単純な生き物は、遺伝淘汰によって洗練された生き残りのための行動(プログラム)を実行しているだけのように見えます。

例えば、蚊は二酸化炭素濃度の高い方へ移動するようプログラムされており、その行動は食料である動物の血液を発見することに繋がっています。

人間は、それよりはるかに複雑ですが、遺伝子とミームによってプログラムされる機械であり、その行動は、長い遺伝淘汰で洗練された生き残りのための先天的プログラムと、後天的に獲得した脳内のプログラム(ミーム?)の淘汰によって規定されている、と考えられます。


私たちは宇宙の長い計算過程の中で生みだされ、今では宇宙の一部として、それぞれが複雑な計算を行っています。

何のために?


それは、宇宙の計算が終わってみないとわからない、と計算機の科学は言っています。

しかし、こう考えることもできます。


ヒトは機械だが、宇宙というどんな芸術作品もかなわない複雑精緻で美しい機械の一部だ。


計算機が問題を解くには、計算対象のモデル(コピー)をその内部に作る必要があります。


つまり、宇宙(世界)について考える一人ひとりの人間の脳の中には、それぞれ違う宇宙が存在する、というわけです。


よって、宇宙の中にはヒトの数だけ宇宙が存在します。

ヒトはそれぞれが、宇宙の中に宇宙を作り出す存在なのです。


私たちは「考え」ます。

それは、宇宙の中で一人、宇宙を作り出す作業なのです。


人は、人と交わります。

それは、宇宙と宇宙のぶつかり合いでもあるのです。

そしてぶつかり合った宇宙は、互いに影響しあい、それぞれの形を変えていきます。


今日も私たちは、宇宙を丸ごとひとつ抱えたまま目を覚まし、街を歩き、"他の宇宙"と情報を交換し、内なる宇宙の姿を少しずつ変えながら「生きて」います。

だから、私はこう考えるのです。

私たちが生きる意味は、自らの内なる宇宙を完成させ、大いなる宇宙に示すことだ、と。


(計算する宇宙編、完)


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

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哲学する宇宙

『実は、宇宙は自分自身を計算している。自らの振る舞いを計算しているのである。』~セス・ロイド

~~~~

「宇宙はコンピュータだ!」などといわれると、

「そうかい、宇宙はコンピュータなんだね。じゃあ一体何を計算しているの?」

と、誰しも疑問に思いますよね?


セス・ロイドは、『宇宙は宇宙自身を計算しているのだ』と言い放ちます。


「なんだと?!」

と思わずつぶやきつつ、私はどこか背筋が寒くなる思いでした。

その感覚の正体はすぐにはわかりませんでしたが、やがて、"私というコンピュータ"はこんな結果をはじき出したのです。


「宇宙自身を計算する宇宙」は、「<私はいったい何なんだ>と考える人間」に似ている。


~~~~

<宇宙の"情報処理革命"史>の回で以下のような話をしました。

「コンピュータは意味のある仕事をしているけど、"遺伝情報の情報処理"って何か意味があるの?」

と考えることは、

「人間はなぜ生まれてきたの? それに何に意味があるの?」

と問うているとも取れる、と。

~~~~


「宇宙自身を計算する宇宙」が「自分の存在について考える人間」と似ているというのなら、「計算すること=考えること」なのでしょうか?


「考える」というのは、ある問いに対する答えを求めて情報を処理する、ということだと思います。

例えば、「目的地へ行くのに2つのルートがあるとして、どちらを選ぶか」と「考える」時は、情報を集めて頭の中で実際にそれぞれのルートで移動した場合のことを予想して、それらを比較しますよね?

比較のポイントもいろいろ考えられます。「どちらが早く着く?」「快適なのはどっち?」「楽しいのは?」

一般的には早く着くことを重視しそうですが、時間的余裕があれば、楽しいルートを選ぶかもしれませんね。

これは、脳というコンピュータが当面の課題に対してシミュレーションを行い、結果を評価して次の動作を決定するのに利用する、という一連の計算過程であると見て取れます。


では、目の前に見たことのない物体が現れた場合、私たちはどんな計算をするのでしょうか?

→今までに見たことのある物体に似た形のものはないか、記憶にあるデータと比較する。

→触ってみて、触感で記憶データを検索する。

→叩いてみて、音で(以下同文)

→においをかいで、それで(以下同文)

もしそれでもわからなければ、分散処理の出番です。

→誰かに電話をかけて物体の特徴を伝え、記憶データの検索結果を返してもらう。

上記のどこかで記憶上の物体と一致すればめでたく計算終了ですが、一致しなければ、集めたデータとともに「○月×日、△△で見た物体エックス」として記憶領域に格納されるか、きっぱり忘れてしまうかのいずれかでしょう。(忘れていいかどうかについても、一連の計算が行われます。)

同様に、

私はあの人が好きなのか? そうであるなら、どう行動すべきか?

あの失敗(または成功)の原因は何か? 反省して将来に生かすべき点はあるか?

腹減ったな。何食べようか? 朝食べたのはなんだっけ?体にいいのはやっぱアレかな?

といった考え、思考は、全て脳内の情報処理として捉えることができます。


つまり、「考えること」は「与えられたデータについて計算すること」であり、

故に「宇宙は考えている」とも言えます。

ところで、宇宙は何について計算しているんでしたっけ?


ロイド「宇宙自身についてだよ」


ということは・・・

宇宙は哲学している。「宇宙とは何か?」について。


では、私たち人間はその中で、何をしているのでしょうか?


(次回、"計算する宇宙"編の最終回です。)


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

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2009年10月25日日曜日

哲学する科学:未来の"情報処理革命"

『人類の言語の発明と多様な社会の発達は、地球の姿を大きく変える真の情報処理革命であった。』~セス・ロイド


さて、言語を獲得してからの"量子コンピュータ、宇宙"ですが、その後もいろいろな"情報処理革命"を起こしてきました。

それは全て、私たち人類が"発明"と呼んでいるものです。

<文字>、<数字>、<数字のゼロ>、<(人工)コンピュータ>、<(人工)コンピュータ・ネットワーク>、<(宇宙という量子コンピュータの中の)量子コンピュータ>…


私たち人類は、この"計算する宇宙"の中で最先端にいるのです。

~~~~

しかし、この地球上での情報処理の主役が変わる可能性は他にもあります。

私たち自身が生み出した、"(人工)コンピュータ"は、私たちの脳と同じように「考える」ようになるだろう、という人は少なくありません。

現れるのは、<鉄腕アトム>か<スカイネット>か・・・はたまた<人形つかい>?それとも<エージェント・スミス>?あるいは・・・<ドラえもん>?
(注:いずれも私が好きな映画や漫画にでてくる機械知性たちです。)

…友達になれるヤツらだといいですね。(^^)

いずれにしても、次の"革命"は、私たちが脳の中で行っているタイプの情報処理が、遺伝子の縛りを抜け出して加速するという段階なのではないかと考えます。

~~~~

ところで、<生命の誕生>以降の"情報処理革命"は全てこの地球上に限った話です。

でも、もしかしたら広い宇宙の別の場所には、もっと進んだ情報処理のかたちがあるのでは?


それは、私たちと同じような"生命体"なのでしょうか? それとも、まったく違う"何か"なのでしょうか?

それを知ることは、実際に目の当たりにするまで、叶わないでしょう。

しかしながら、宇宙の異なる場所で発生した"情報処理革命が生んだ何か"同士が接触するとき、それが"情報処理革命"の更なる飛躍を生む可能性は高いと私は思います。

~~~~

3号に亘って一緒に考えてきたように、宇宙を「情報を処理する巨大なコンピュータ」と捉えることで、宇宙の歴史はそのまま"情報処理革命"の歴史として捉えなおすことができます。

それらの革命は、より複雑な宇宙を作り出すためのステップであると同時に、それまでの長い長い計算の結果でもあります。

計算する宇宙が、生命を生みだし、私たち人間の複雑な社会や、文明、文化、思考をも作り上げてきたのです。


次回からはいよいよ、

「"計算する宇宙"の中で私たち人間は何をしているのか?」

ということを考えていきたいと思います。

(つづく)


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

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2009年10月24日土曜日

哲学する科学:宇宙の"情報処理革命"史 その2

クイズの回答を送ってくださった皆様、ありがとうございました。

みなさん結構ちゃんと読んでくれているのだな、と身が引き締まる思いでした。

また、予想外の回答もあって逆に私が楽しませていただいたりもしました。


さて、私の方で用意していた正解は、<脳の誕生>でした。

しかしそう回答された方はいなかったので、代わりにその次の革命である<言語の誕生>と答えてくれた方を正解とさせていただきたいと思います。

実はロイドは「脳と中枢神経系の発達」を革命の一つとして挙げてはいますが、その前後の革命である性の誕生と言語の誕生をより重要なものとして位置付けているようでした。

なので、言語の誕生、ほぼ正解です!

さて、<言語の誕生>と回答された方はお二方いらっしゃいましたので、抽選が必要となりました。その方法ですが・・・

「私」と時計を使った乱数発生機が提示した数(「私」が「そうしようと思った」瞬間に時計を見た時の秒針の位置)を2で割った余りと正解者の方の応募順を比較して、一致した方を正解者にするという抽選、という方法をとらせていただきました。その結果・・・


プレゼント当選者は、M.Tさんとなりました。おめでとうございます!!


ちなみに他には、「文明」「文化」「思考」の誕生という回答も頂きました。

実は、私個人としては言語は思考や概念を伝達するための道具であり、文化・文明を表現する一つの手段と捉えていて、またこれらは全て<ミームの誕生>とも言い換えられると思っています。なので、全部まとめて正解としたいくらいでした。

「死」という回答もいただきました。

死は生命の誕生と同時に生まれたと私は理解していますが、情報という観点からすると、絶えず変化しながら受け継がれていく情報は、常に生まれては死んでいくものだとも言えるし、ある意味で不死性を持っているものだとも考えます。


(私の無意識の)思いつきで企画したクイズでしたが、いろいろ発見もあり、予想外の収穫がありました。

皆様、本当にありがとうございました!


~~~~

さて、性の誕生の次に起きた"情報処理革命"は、<脳の誕生>でした。


このメルマガでも以前取り上げましたが、脳とはある種のコンピュータだという考え方があります。

つまり<脳>の誕生は、宇宙というコンピュータの中に、別のコンピュータが生まれた歴史的瞬間だった!とも言えると思います。

その脳は遺伝子を使った計算が進むにつれて高度化して行きます。

そして現在、地球上で一番高度な脳は、(イルカだとする説もありますが ^^)たぶん人間の脳ではないかと思います。


その人の脳の能力を土台にして起きた次の情報処理革命が<言語の誕生>です。

言語によって、脳と脳が複雑な概念を伝え合い、協調して情報を処理することが可能となりました。

これは人間が作ったIT技術でいえば、インターネットの誕生と似ています。

ネットにつながる前、パソコンを使って買い物できるなんて、思いもよりませんでした。

コンピュータ同士がネットで繋がることにより、世界中のコンピュータが一つのコンピュータのように、情報や計算を分担し、今までできなかったことができるようになったのです。


それと同様にヒトの<脳>も、<言語>によって繋がることで、より高度な活動を行いはじめました。


ロイドはこう表現しています。

『言語のおかげで人々は広く分散させた形で情報を処理できるようになった。(中略)人々は新たな形で協力し合い、集団、群衆、社会、組合、(中略)民主制、共産制、資本制、宗教、科学… といったさまざまな形の分散情報処理が、独自の生命を獲得し、増殖して時とともに進化していった。』


・・・このメルマガを以前から読んでいただいている方は、「なにやらどこかで聞いた話と重なる部分があるな…」と感じるのでは?

そうです。少し前に"ミーム編"でお話しした<ミーム>とみなせる様々なものたちが、セスの話の中では「言語の登場によって生まれ、進化していったものたち」として取り上げられています。


"ミーム"論と"計算する宇宙"論の相関についてはまだ私の中で"計算中"なので、別の機会にお話したいと思います。

(つづく)


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

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哲学する科学:宇宙の"情報処理革命"史 その1

『量子コンピュータ上の宇宙でのシミュレーションは、宇宙そのものと区別がつかないのだ。』

『観測からでは量子コンピュータと見分けがつかないのだから、宇宙はまさに量子コンピュータなのである。』

 ~セス・ロイド

~~~~

ところで、「情報処理革命」と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?

<コンピュータの発明>でしょうか、それとも<インターネットの登場>でしょうか。

ロイドならこういうでしょう。

「それも情報処理革命だけど、この宇宙ではそれ以前にたくさんの"情報処理革命"が起きてきたんだ。例えば"生命の誕生"なんかも情報処理革命なんだよ。」


…この宇宙が巨大な情報処理装置だとするなら、その歴史は"情報処理手法の進化"という視点でも捉えられます。

では、"コンピュータとしての宇宙"の歴史について、順を追ってみていきましょう。

~~~~

最初の"革命"は、<宇宙の始まり>でした。

つまり、宇宙というコンピュータが"量子"を使って計算を始めた瞬間です。

宇宙は恒星や銀河を生みだしながらものすごい勢いで広がり、星々の中の原子を使って計算を進めていきます。

はじめは単純だった宇宙も、計算を進めるに従って重い元素を生みだし、星が死に、また生まれ、世界(=量子コンピュータの中のデータ)は次第に複雑さを増していきました。

―――

次の"情報処理革命"は、<生命の誕生>でした。

宇宙は誕生からおよそ100億年ほどかけて、生命を生みだしました。

生命は"遺伝子"を持ち、遺伝子は自分を複製するという特別な性質を持つ分子でした。

遺伝子の複製の仕組み<生命>は、遺伝子内部の情報によって性質が決まり、環境が生命にかける圧力(淘汰圧)によって、より生き残りやすい生命を生み出す遺伝子が生き残っていきました。

この時点では、生命の多様性は、時々起きるコピーの"失敗"によって生み出されるわずかなものだったと想像できます。

このときから宇宙は遺伝子という、原子や単純な分子より大きな情報の塊を使って、情報を処理し始めます。

―――

生命の誕生に続く情報処理革命である<性の誕生>は、宇宙の情報処理を劇的に効率化をしました。

何しろ、

「一世代ごとに少しずつ違う遺伝子の組み合わせを生みだす仕組み」

「遺伝子の多様性を爆発的に増加させ、環境の変化に強くする仕組み」

が同時にもたらされたのですから。

有性生殖による遺伝子の増殖は、遺伝子の完全なコピーを残すことはできませんが、世界中のいたるところで少しずつ性質の違うコピーを作り、生き残りにおいて単性生殖より遥かに有利でした。

余談ですが、ロイドはこの革命をこんな風に表現しています。

『性は楽しいだけでなく工学的方法としても優れているのである。』

…ロイド先生、なかなかの色男なのかもしれないですね?(笑)

~~~~

<生命>と<性>は、"計算する宇宙の歴史"という観点から見ても、革命的なことでした。


ロイドによれば、『生物が行っている遺伝的情報処理をすべて足し合わせると、人間が作ったコンピュータの情報処理量をはるかに上回り、しばらくの間は覆されることはない』というから驚きです。


しかし、こんな風に思う人もいるかもしれません。

「コンピュータは意味のある仕事をしているけど、"遺伝情報の情報処理"って何か意味があるの?」

・・・それは、人間はなぜ生まれてきたの? それに何に意味があるの? という意味とも取れますね。


この問いへの答えは、このシリーズの最後で一緒に考えましょう。


さて、ここで突然問題です!

次に宇宙で起きた"情報処理革命"は、何だったと思いますか?(^^)

―――正解者の中から抽選で1名様に、今までこのメルマガでご紹介した本の中うちご希望の1冊をプレゼントしちゃいますので、以下のアドレスまで奮ってご応募ください!

(つづく)


ご意見、ご希望、ご質問、クイズの回答は mailto:thinking-science@live.jp まで


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

2009年10月20日火曜日

哲学する科学:量子コンピュータ

"量子機械工学者"セス・ロイドは、『宇宙は巨大な量子コンピュータ』だと言います。

では、コンピュータなら何を計算しているのでしょうか?

ロイドは、『宇宙そのもの』を計算している、と言います・・・


この謎めいた言葉の意味を考えてみる前に、まずは『量子コンピュータ』とは何か、について簡単に理解した気になっておきましょう(笑)


~~~~

ここで一つ豆知識(ぜんぜん実用的ではありませんが…)

普通のコンピュータにやらせると膨大な時間がかかる計算も瞬時に答えを出すことができるのが量子コンピュータの特徴の一つであり、もし量子コンピュータが実用化されれば、どんな暗号も簡単に解けるようになってしまい、情報社会のセキュリティが崩壊するとも言われています。

セス・ロイドは、実際に量子コンピュータが実現可能であることを示し、世界初の量子コンピュータの開発にも関わりました。そして、実際に実用化へ向けての研究
も始まっています。

しかしご安心ください。

量子コンピュータが実用化されるにはまだ多くのハードル超える必要があるようなので、インターネットのショッピングもまだしばらくは安心して続けられそうです^^)

~~~~


ご存知の方もいるかもしれませんが、宇宙はコンピュータだ!というアイディアは、実は数十年前からありました。

しかし、宇宙の複雑な振る舞いを完全にシミュレート(まね)するには、現在一般に使われているコンピュータでは不可能だということが分かってきています。


量子コンピュータとは、私たちが使っているコンピュータと同じく、計算をするしくみ(機械)です。

しかし、普通のコンピュータは情報の最小格納単位として、0か1かの"ビット"を使いますが、量子コンピュータは0でもあり1でもありえる"量子ビット"を扱います。

例えば、普通の人は男か女かのいずれかですが、"量子人間"は、男でもあるし女でもある、ということもあり得るのだ!

でもって、「男性100人にアンケート」と「女性100人にアンケート」が、100人にアンケートするだけで完了してしまうという・・・


・・・喩えが悪かったかもしれませんが・・・ (^^;)


ともかく、"量子"というのは私たちの常識では"どっちかだろ?"と考えたい2つ以上の状態の"どっちでもあり得る"という状態をとる性質を持つ、ということなのです。


"量子"については、これまた哲学的な含みを持っている部分があるので、別のシリーズとしてまた書いてみたいと考えています。

が、今回のシリーズでは"量子"はわき役で、"宇宙はコンピュータだ"という話が主題なので、ひとまずは以下の点だけ理解しておいてください。


ポイント→ 宇宙をミクロのレベルまで掘り下げると"量子"という概念でしか今のところ説明できない。"量子コンピュータ"は、宇宙の振る舞いを"量子"レベルで完全にシミュレートできる。

~~~~

『量子コンピュータ上の宇宙でのシミュレーションは、宇宙そのものと区別がつかないのだ。』~セス・ロイド


セス・ロイドは量子コンピュータが、量子からできているこの宇宙の振る舞いを完璧にシミュレートできることを証明することに成功したといいます。

そして・・・気がついてしまったらしいのです。

量子コンピュータと宇宙の振る舞いが全く同じということは、宇宙そのものも量子コンピュータである、ということに。。。

(つづく)

ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

哲学する科学:宇宙は巨大なコンピュータ?

2週間のご無沙汰でした。今回からいよいよ、新章のスタートです。


みなさんは『銀河ヒッチハイクガイド』という映画をご存知ですか?

コメディ映画の皮をかぶった非常に哲学的(と私は見た)映画なのですが、、、

その映画の中で、<地球は地球外生命体がある問題を解くために作った、巨大なコンピュータである>というアイディアがでてきます。

そしてそのコンピュータが解くべき問題とは「生命の、宇宙の、その他もろもろについての答え」というものなのですが・・・(笑)

果たして、その答えは出たのでしょうか?

気になる人は是非、見てみてください。(^^)


さて、その映画を見てからしばらく、私は何を見ても、<<計算中>>というテロップが視野の片隅に見えるようになってしまいました。

なぜなら、もしかしたら映画で語られていたように、地球は誰かが作ったコンピュータで、私たち人間も、動物たちも、風も、大地も、雲も、この地球上のあらゆるものが、ある計算の一部なのかもしれない・・・と、結構真剣に考えてしまったからです(汗)


もっとも、そういう可能性はないわけではないと感じた私ではありましたが、眺める景色、人ごみ、その他もろもろの上に脳内で<<計算中>>のテロップを重ねて悦に入る以上のことは何もできず、そのうちそうした感覚も薄れていってしまいましたのですが。。


しかし、科学の最先端で量子情報理論を研究するセス・ロイドの本を読んで驚きました。

彼にこの話をしたら、きっとこう答えると思います。

「その通り!地球はコンピュータさ。ただし正確には、地球はコンピュータの"一部"で、実際にはこの宇宙全体がコンピュータなのさ。」


セス・ロイドは、マサチューセッツ工科大学の教授であり、量子力学を利用した計算機、「量子コンピュータ」のパイオニアです。

そして、彼は著書「宇宙をプラグラムする宇宙」の中でこう言っています。

『宇宙は量子力学の法則に支配されているので、宇宙は本質的に量子力学的なやり方で計算していて、そのビットは量子ビットである。結果的に、宇宙の歴史は、今も続けられている巨大な量子計算ということになる。宇宙は量子コンピュータなのだ。』~セス・ロイド

(つづく)


参考文献

宇宙をプログラムする宇宙
セス・ロイド著
早川書房

ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで

2009年10月4日日曜日

哲学する科学:号外(ぶっちゃけタイム)

皆様、いつもご購読ありがとうござます。

今回は本題を少しお休みして、ざっくばらんな裏話&本音トークをさせてください。


「哲学する科学」発刊までの道のり:

直接のきっかけは、実は私の父が「携帯用のメルマガを出してみたいのだ!」というので、

読者はどのくらい集まるものなのか?発行の仕方は?

などの疑問に答えるため、

「ではまずは私がやってみるか!」ということでした。

で、何か書く題材がこの私にあるのか?

と自問してみたところ、

(最近いろいろと読み漁っている、ああいった話について書けばいいんじゃないか?)

と、心の中で声がしました。

「ああいった話」とは、意識の謎的な話や、ミームという興味深い存在を仮定した上での新しい人間観
といった話でした。

すると、私の心の中で別の声が言いました。

(おお!それはいいね!うん。ぜひやってみるべきだ!)


私事で恐縮ですが、ここ数年来、アイデンテティの危機といいますか、自分の人生の先行きに不安を感じており、どういう未来を目指すべきか、自分にとって一番大切なものは何か、自分とはどういう人間なのか、といったことを事あるごとに考える日々でした。

そしてともすると、拠りどころを失い、自暴自棄になりかねないような自分を感じていました。

そんな私とって導きとなってくれたのは、何冊かの本でした。

だから私の心のある部分は、「やってみよう、やってみるべき」と言ったのだと思います。


私にとって助けになったのだから、きっと他の誰かにも助けになるに違いない!

そうして、不特定多数の方に読んでいただく文章など書いたことのない私が、こうしてメルマガを書くようになったのでした。

とはいえ、私の文章力、構成力などの不足により、今ひとつ、ふたつ、みっつ・・・わかりにくく、面白くないというものになってしまっているのではないか?と不安でもあります。

要点を分かりやすく、しかも読み物として面白く、だれでも読めて、私が衝撃を受けたポイントの本質を気がつくと理解している・・・といったものを目指してはいるのですが・・・まだまだ、修行が足りないようです。

今後少しずつ、文章力、構成力アップし、飽きない!面白い!ためになる!メルマガを目指して精進してまいりますので、どうか温かい目で見守ってください。よろしくお願いします!



今後の「哲学する科学」:

実は最近、(始めた以上はある程度のペースで書き続けなければ・・・)といったプレッシャーが湧き上がってくることがあります。そして、(メルマガを書くために新しい本を読まなきゃ)と思ったり、そう思うことが時に苦痛に感じられたりすることも・・・

その一方で、(もし評判が良いようなら、いずれ編集しなおして、書籍として刊行してもいいかな・・・)などと、勝手に分不相応な夢を膨らませてくれる心もあったりします。


しかしながら、やはりメルマガ「哲学する科学」の目的は、「私を変えた科学的<私>観」を、できる限りわかりやすく、一人でも多くの人にお伝えすることであり、決して本を出したり、たくさん書くことが最終目標となってはいけない、と自戒しているところであります。


なので、今後、いままでより発行ペースが落ちるかもしれません。

が、書くときはじっくりと腰を据えて書きたいと思っておりますので、今後もぜひ引き続きのご購読をよろしくお願いいたします。

皆様が読んで下さることが「哲学する科学」の原動力であり、皆様の一部としての私がこの世界の理解を深め、その理解を皆様にお返しすることで、皆様の世界に関する理解もより深まってゆく… そういうメルマガでありたいです。


2009・10・04

哲学する科学 発行人守本憲一

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この前ご紹介しましたが、今一度・・・

体一つで海外に飛んだある男の冒険の物語(実話)

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2009年10月3日土曜日

哲学する科学:ブラックモアの放ったミームと私

ここ数号の「哲学する科学」では、ブロディとブラックモアという二人のミーム論者による、ミーム論についてご説明しました。

そこで論じられていたことがらは、以下のようなものでした。


「ミームとは文化の遺伝子である。」

「ミームとは、私たちの心に入り込み、私たちを操るウィルス的側面を持っている。」

「ミームとは、私たちの心を形作る素材である。」

「私たちのミームは、私たちである。」

「自己とは、ミームが作り出す錯覚である。」

「自己が錯覚であることを自覚することで、人はよりよく生きられる。」


ミームが科学として真剣に研究され始めてからまだ、20年足らずです。

メンデルが遺伝学を研究し始めたのは19世紀半ばでした。そのメンデルは自らの発見した法則が認められる前にこの世を去り、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見したのは20世紀半ばのこと。実にメンデルの研究から100年後でした。


生命現象を駆動する自己複製子、Gene(遺伝子)は太古の地球で生まれ、環境の圧力によってそれ自体とその乗り物である生命体を、自然選択によって進化させてきた。

文化と心を駆動する自己複製子、Meme(ミーム)は遺伝子進化が生み出したヒトの祖先の生命体の脳の中で生まれ、環境の圧力によってそれ自体とその表現系である人間の文化や心を進化させてきた。


これらはすべて、仮説です。

生命現象において遺伝子が主役であるというのも、一つの仮説に過ぎません。


また、遺伝子とのアナロジーにこだわるあまり、DNAに対応するミームの実態を探すことにこだわりすぎるより、文化と心のダイナミクスに着目し、遺伝子とは違った法則を探すべきであるようにも思えます。

しかし、ミームに関する諸説を巡る旅を通して私が得たのは、紛れもない、まったく新しい人間観、自分観でした。

そういう意味では、ミームは科学としてよりも、哲学的により重要な、思考ツールであるともいえるのではないでしょうか。

・・・少なくとも、現時点では。


参考文献

ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊

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哲学する科学:≪自己≫の呪縛からの離脱

本編に入る前にまた一つ、私のお気に入りのメルマガを紹介します。

先のことなど考えず、とりあえず海外に飛び出したある男性の手記・・・なんだか、勇気をもらえますよ!

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『今や、私たちが誰であるかについて根底的に新しい考え方が得られた。私たちの一人ひとりは、人体と脳という物理的な機構の上を走る巨大なミーム複合体――ミーム・マシーン――である。』 ~スーザン・ブラックモア


私たちの脳は遺伝子が生み出した複雑な情報処理装置(ハードウェア)であり、その機械の上で実行される複雑なプログラムがミーム複合体であり、そのプログラムは脳の上で実行されながらも新しいプログラム(ミーム)を外部から取捨選択し、日々変異しながら実行され続けている・・・

人間は生物学上、遺伝子淘汰によって生み出されたという点や体の各部の構造などから他の地球上の生物たちとそれほど大きな差異はないが、巨大な脳と、その脳の中で生まれた第二の自己複製子、ミームによって生み出される複雑な行動や文化を持つという点で大きく異なります。

特に、私たちが感じる≪私≫という感覚は、≪自己≫というミームの複合体が生み出すものであり、そういう意味で私たちは「ミーム・マシーン(ミーム処理装置)」であり、その装置の上で動いているソフトウェアこそ私たちであると考えるならば、「私たち=ミーム」という図式も成り立ちます。

これが、ブラックモアの「哲学」であり、彼女がミームを研究して持つにいたった「信念」です。



余談になりますが、考えてみると少子化問題や性同一性障害など、人間を遺伝子の乗り物とだけ考えると、本来遺伝子が作った脳が遺伝子に反逆しているようにも見えます。

脳というハードウェアだけの問題として考えるなら、「子供を欲しがらない脳」や「同性に惹かれる脳」などが、遺伝子の組み合わせから生まれてきて、生き残りに有利でないが故に淘汰されるのが自然なはずです。

しかし、≪子供はいらない≫≪子育てめんどくさい≫≪自分の人生は私のもの≫≪仕事に生きる!≫といったミームの複合体や、≪異性愛だけが愛ではない≫≪前世での縁≫≪生物学的な愛を超えた関係≫といったミームの複合体などが脳の中で生まれ、他のミームと結びつくことで、ミーム同士の競合状態を勝ち上がってくる場合もあると考えると、遺伝子だけで説明するよりもしっくり来る気がしませんか?


話を戻しましょう。

ブラックモアはその著書の最終章でこのように述べています。


『もしミーム学を真剣に受け止めるなら、進化的な過程に飛び込み、それを止め、それに指図をし、あるいはそれに対して何かをする誰かあるいは何かが存在する余地はありえない。あるのはただ、終わることなくいつまでも続けられる遺伝子とミームによる進化的過程だけである―――そして見つめるものは誰もいない。』


・・・絶望的な話に思えるかもしれません。


しかしブラックモアは、ミーム学の考え方を武器に≪自己複合体≫の支配から抜け出すことができれば、人間は『罪の意識、恥、自信喪失、失敗への恐れなどが薄れていき、より良き隣人となっていく。』と説きます。

実際に私は、ブラックモアの本に含まれる≪ミーム≫(ミームに関するミーム)に「感染」することで、以前より自分を客観視できるようになり、些細なこと(やそうでないと思えること)で悩まないようになってきています。


・・・ミームに関する知識の広まりは、人類の変革を促す可能性がある・・・


私は、そう信じています。


参考文献

ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで

哲学する科学:自己複合体

前回は、ミーム学的に考えると、「私」というのは≪自己≫というミーム複合体である、というお話でした。

今回はこの≪自己≫というミーム複合体、自己複合体についてもう少し考えてみましょう。

~~~~

ブラックモアは言います。

『ミーム複合体とはお互いにとって有利であるために一緒になっているミームの集団である。複合体内のミームたちはひとたび一緒になると、自己組織的、自己防衛的な構造を形成し、それが集団とうまくやっていけるミームを歓迎し保護する一方で、そうでないものを追い払う。』

つまり、すべての≪宗教≫、≪イデオロギー≫などをはじめとするミーム複合体は、新たにやってくるミームに対して、自らを強化するものを迎え入れ、そうでないものを排除することで、より強力になっていった考えられるわけで・・・。

そして≪自己≫もまた、ミーム複合体として同じことをしてきた、と。

≪私は私である≫という考えがいつ生まれたのかは定かではありません。

しかし、ひとたび誕生すると、それは強力に他のミームの複製を助けた、というのが、なぜ≪自己≫がこれほど蔓延しているのかの答えだ、というのがブラックモアの考えのようです。


たとえば、「○○をxxする」という行為だけではなかなか真似してもらえませんが、「私は○○をxxするのが好きだ」と言うと、より関心をひかれますよね?

なぜなら、それに同意できる場合は「私も・・・」ということになり、それはすなわち≪私は○○をxxするのが好き≫というミームのコピーを意味する。

≪私は○○をxxするのが好き≫というのは実はミーム複合体であり、≪私は私≫というミームを含んでいます。

逆に言うと、≪私は○○をxxするのが好き≫というミーム複合体は、≪私は私(自己)≫ミームを含むさらに大きな≪自己複合体≫の一部でもあり、≪自己≫というミームを核として、複製されやすいより小さなミーム複合体に支えられ、ほとんどすべての人の心の大きな部分を占めている、という状況を、そのコピーされやすく、想起されやすい性質がゆえに引き起こしている、と考えられます。


『占星術に関する知識とそれについておしゃべりする傾向を蓄えることができる脳は存在するが、そのうえに信念を「もつ」自己は存在しない。毎日ヨーグルトを食べる生物学的な生き物は存在するが、そのうえにヨーグルトを愛する内面の自己は存在しない。ミーム世界がますます複雑になるにつれ、自己もそれにならう。』 


そして私たちは、年中「私」について考え、「私」の過去や「私」の未来、「私」のシアワセやら「私」の老後やら、「私」の他人から見た姿やら「私」がどれだけ素晴らしい人間か、またはそうでないか、など、およそ考えなくてもよい無数の「私」考を繰り広げてしまう・・・≪私(自己)≫というミームの強力さ故に。


『自己複合体が成功しているのは、それが真実だからでも優れているからでも、美しいからでもない。それが私たちの遺伝子を助けるからでもないし、私たちを幸福にするからでもない。(中略)(逆に)これこそが、ときに絶望的に不幸で、混乱した嘘としての人生を生きる理由ではないかと私は言いたい。ミームたちが私たちにそうさせてきたのである。――なぜなら、「自己」はミームの自己複製を助けるからである。』 ~スーザン・ブラックモア


~~~~

では、≪私≫に囚われることが≪私たち≫を≪不幸≫にするのであれば、いったいどうすればよいというのでしょうか?

・・・次回は、ブラックモアによるミーム論の最終回です。


参考文献
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

ご意見、ご希望、ご質問は mailto:thinking-science@live.jp まで

哲学する科学:「私」という究極のミーム複合体

前回は、私たちの脳の中の、ミームの組み合わせが私たちを規定しているのではないか?というお話でした。

今回は、ミーム学を使って、以下のような哲学的な問いにどう答え得るかを、ご紹介しましょう。


「私」とはいったい何なのか?

~~~~

ブラックモアはまず、物理的な体とは分離した「私」という実体は確認不能であるがゆえに存在しない、というところから議論を始めています。
確認できたらそれは物理的な実体の一部であるし、物理的でない存在が物理的な実体である体に作用する方法が理解できないとして、「私」は物理的な体の中のどこかにあると推論しています。

物理的な体のどこかに「私」がいるのであれば、それは脳の中であると思われますが、「私」=「ニューロンの塊(物理的な脳)」という説にも異を唱えます。
つまり、脳はハードウェアにすぎないということを言っています。(これは暗に「私」とは脳というコンピュータの中のソフトウェアであると言っていることになりますね。)

しかし、ブラックモアはこの脳の中の「私」の存在にも疑問を呈します。

ここで一つ、ブラックモアに倣って実験をしてみましょう。


→このメルマガの中から、≪存在≫という単語を探してみてください。




見つかりましたか?

さて、あなたが上記の指示を読んでそれを実行した(あるいはしなかった)とき、何が起こったのでしょうか?



細かいことを言えば、「あなたは画面上の文字を解読し、言語中枢で意味を解釈し、実行するかどうか決断し・・・」と、長々書くことができます。

が、ブラックモアは『指示とあなたの脳と体が与えられたとき、動作の全体が自らを生みだした』のだといい、そこに「私」の存在は不要であると説きます。

そして、脳の中に私という主体が存在し、それが見るためのスクリーン(劇場)が脳の中に存在するという学説についても、その論理を採用するなら、脳の中の自分はさらに脳の中の自分を持つ必要が出てきて、さらにその中に・・・という矛盾をはらむので、採用できないとしています。

さらに彼女は、このメルマガでも以前取り上げたリベットの実験を引用し、「私(意識)」が決断する以前に脳は指導しているという実験結果から、「私」が全てを決定しているという感覚は錯覚であるという学説を支持しています。

では、「私」がもし錯覚であるなら、なぜそのような錯覚が必要なのでしょうか?


ブラックモアはまず、既存の「遺伝子淘汰上有利だったから」という説の検証から入ります。
以前紹介した前野学説(「私」はエピソード記憶をする小さなプログラムが便宜上発生させている)もここに含まれるかもしれませんが、「私」をでっちあげることによって、ヒトという種にとって有利なことがあれば、「私」を助長する遺伝子は繁栄し、「私」も繁栄するというものです。

一見、これは正しいように思われますが、ブラックモアは「このような作用をもたらすためだけなら、私たちの「体」や他人の「体」がどうふるまうかをモデル化する脳を持てば十分だったはずで、『物事を信じ、行い、望む、生涯のわたって持続する内なる自己についての偽りの物語』を捏造する必要はなかったのではないかといいます。


では、ブラックモアが考える、「私」の正体とは、どんなものなのでしょうか?

~~~~

ミームは私たちの脳の中で複製され、変異し、保持され、さらに複製されていきますが、ミームは他のミームと結びつくことで、より強い「感染力(複製されやすさ)」を獲得していきます。

複数のミームが結びついたものを「ミーム複合体」と呼びます。(例えば≪温暖化を防ぐために行動しよう≫というミームは無数のミームが含まれていて、その組み合わせが強力な「複製されやすさ」を生みだし、このミーム複合体を強力なものにしています。)

そして、ブラックモアは「私」はその中でも最も強力な「ミーム複合体」である、と説明しています。


『自己(私)は巨大なミーム複合体―――おそらくすべての中でもっとも狡猾でもっとも広く蔓延しているミーム複合体である。』 ~スーザン・ブラックモア


つまり、ミーム学的にいえば、「私」という錯覚は、ミーム淘汰上有利であるがゆえに生まれ、生き残り続けている、ということです。


次回、もう少しこの≪自己≫というミーム複合体について、考えてみましょう。


参考文献
ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

哲学する科学:心の遺伝子、ミーム

私たち人間は他の生き物とどう違うのか?

それは、人間の模倣能力によって生まれたミームが生み出す、多様な文化を持っていることである。

≪国ごとの文化、風習≫、≪貨幣経済≫、≪宗教≫、≪映画≫、≪文学≫、≪IT社会≫、≪温暖化ガス排出権取引≫、≪ブログ≫、≪メルマガ≫…

これらは全て「ミーム」である。

前回はそういうお話をしました。


最近メルマガをご登録いただいた皆様は「ミーム」とは何か、ご存じない方も多いかと思います。詳しくは、バックナンバーをお読みいただくのがよいかと思います。

バックナンバーhttp://m.mag2.jp/b/M0094525(「ミーム編」は8月31日号以降の4号です。)

さて、今回からはいよいよミームについてのお話の核心部分に入っていきます。

*-*-*-*-*-*-*-*

地球上のあらゆる生命現象は、太古の海に生まれた遺伝子という自己複製子の複製と変異が生み出している。

全ての生き物は遺伝子の乗り物(方舟)であり、人間を除くほとんどの生き物の行動は、気の遠くなるほどの時間の中で自然淘汰によって進化してきた遺伝子に還元できる。

そして、私たち人類が持つ「文化」はヒトの祖先の脳に生まれたミームという第2の自己複製子の複製と変異が生み出している。

ミームはヒトの脳から脳へ人によってコピーされ、急速な変異を繰り返しながら、無数のヒトの脳という環境の中で淘汰され、進化してきた。その表現系がヒトの文化である。

…と、ミームについて今までの話を(いままで使ってない表現も使って)ざっとまとめるとこんな具合でしょうか。

では、私たち一人一人にミーム理論を当てはめて考えると、どういう仮説が導き出されるのでしょうか?


私たちは個人レベルでは、例えば以下のようなミームを運んでいると考えることができます。

≪将来の夢≫、≪家族への愛≫、≪お気に入りの小説に含まれるメッセージ≫、≪経済観念≫、≪政治的思想≫、≪友達との付き合い方≫、≪休日の過ごし方≫、≪仕事への姿勢≫、≪恋人の愛し方≫、≪趣味≫、≪人生観≫、エトセトラ、エトセトラ。

私たち人間は、生まれてきてからずっと、こうしたミームを私たち自身の外部から取り込み、それを取捨選択しながら生きてきました。

そうした営みの中で、時として強力なミームが生み出され、急速に多くの人の脳の中にコピーされ、(例えば≪コスプレ≫のように^^;)「文化」として認知されていくわけですが・・・

しかし日々私たちの中で行われている膨大な「ミーム処理」(考え事や、友達とのおしゃべり、テレビを見たり、芸術を鑑賞したり…)によって私たちの頭の中に生まれる無数のミームの変種たちは、ほとんどがコピーされることなく、消えていきます。

ですが結果として、私たちの脳の中には、無数のミームが存在しています。そして、それらミームの組み合わせが私たちの個性を形作っている、ともいえるかもしれません。

ならば、ミームは私たちの「心の素材」といえるのではないでしょうか。


想像してみてください。

私たちが脳の中に蓄え、捨てることなく少なくともしばらくの間は保持しているミームたちが、私たちの心の在り方を決定している・・・(例えば≪幼少期に見た母の背中≫、あるいは昨日読み終えた小説の主人公の≪鮮烈な生きざま≫など)

もちろん、遺伝的に温厚であったり怒りっぽかったりということもあるかとは思います。しかし、私たち人間を特別なものにしているのは、自らの中にミームを蓄え、他者とミームをやり取りし合い、結果として自分の中のミームの組み合わせを変化させていくことで、自分の≪信念≫や≪生き方≫といったものを形成していくという側面なのかもしれません。


つまり、「文化の遺伝子」であるのみならず、ミームは私たちの「心の遺伝子」でもある、と考えられるのです。



『私たちのミームは私たちなのである。』 ~スーザン・ブラックモア



参考文献

ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

哲学する科学:奇妙な生き物

前回は、リチャード・ブロディのミーム論について書きました。

今回からは、スーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしての私」で説明されている、ミームおよび私たち人間の正体に関するお話に入っていきます。


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その前に一つ、お勧めのメルマガをご紹介させてください。
最近よく思うのですが、哲学的命題に対する科学的洞察と、宗教の(特に仏教の)思想が共鳴することに驚かされます。 仏教の教えについても興味がある、という方は以下のメルマガがお勧めです!

生きててよかったって思えますか?
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『人間は奇妙な生き物だ。私たちの体が他の生き物とまったく同じように自然淘汰によって進化したのは疑う余地はない。けれども、私たちは多くの点で他の生き物たちと違っている。』 ~スーザン・ブラックモア

この意見に納得のいかない人もいるかもしれません。以前は私もその中の一人でした。
なぜなら、人間とそれ以外の生き物はどちらも同じように遺伝子の情報をもとに作られており、結局人間も動物の一種だし、「科学的に」人間の解明が進めば進むほど、人間と動物を分け隔てる壁は崩れていき、違いなどないという結論に達するのだと、考えていました。

ただそれはごく最近の一部の人の考え方で、人間はおそらく有史以来ずっと、なぜか「人間は他の動物とは違う!」と信じてきました。
確かに私たち人間は高度に知的で、他のほとんどの動物のできないことができます。道具を作り、自分たちの都合のいいように生活環境を作り変えることさえできます。地球で最も優秀な主として地球を代表しているとさえ感じている人も多いでしょう。

しかし、本質的に、それらの違いを生みだしているものは何に帰結するのか?

ブラックモアは、「それはミームである。」と説きます。


ミームは、長い遺伝子進化によって生まれた人間の祖先がある時「模倣する能力」を獲得した瞬間に生まれたとブラックモアは言います。この特殊な遺伝形質は、他の人間の行動をまねする能力でした。

ちょっと想像してみましょう。

たとえば、誰かが新しい効率的な狩りの方法を編み出したとします。模倣する能力がなければ、その方法は遺伝的には受け渡されないので、編み出した人が死ねば失われてしまいます。しかし模倣能力によって、その技は遺伝的手段によらず、人から人へとコピーされていきます。

コピーされるものは多岐にわたりました。

食べられる草を見分ける方法、疲れない歩き方、異性を引き付ける効果的な方法の数々・・・
それらの多くは遺伝子の生き残りにとっても有効でした。よって、模倣能力の高い個体はそうでない個体に遺伝子淘汰上有利であり、人間は進化の過程でますます模倣の上手な種族になっていきました。



≪土器・石器・鉄器≫、≪言語≫、≪農耕≫、≪共同体≫、≪自然崇拝≫、≪仲間意識≫、≪武器≫…

全て誰かが発明し、それがコピーされることで広まってきたものです。

≪王≫、≪武器≫、≪戦争≫、≪自己≫、≪自己正当化≫、≪民主主義≫、≪社会主義≫、≪幸福≫、≪善悪≫、≪貨幣≫、≪経済≫、≪哲学≫、≪法律≫、≪科学≫、≪市場原理≫、≪相対性理論≫、≪ガイア仮説≫、≪夢≫、≪希望≫…

これらはすべて、他の生き物が知らずに生きている、人間を人間たらしめているものたちです。

これらはすべて、情報です。書物や芸術、建造物などの形で表現されることもできますが、基本的には人間の脳の中にあり、人から人へ伝えられます。そして、そのコピーされることによって複製され、時に変異する情報を「ミーム」と呼ぶのであれば、

人間を人間たらしめているのはミームである、ということになります。


とすると、ミームがどうコピーされ、どう変異するかを理解すれば、人を人たらしめている全てがどうして今の形になっていて、これからどうなっていくのかということも、わかるのではないでしょうか。

私は、そう考えてミーム学の発展に非常に高い期待を寄せています。


次回は、ブラックモアがミーム論から導いた、新しい人間観についてお話します。


参考文献

ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

哲学する科学:心のウィルス、ミーム

『警告! この本にはマインド・ウィルスが潜んでいる。感染したくなければ、この先を読まないほうがいい。ウィルスに感染することにより、あなたの思考が多かれ少なかれ影響を受けるかもしれない。あるいは、あなたの現在の世界観が、がらりと変わってしまうことさえあるかもしれないのだ。』 ~リチャード・ブロディ

リチャード・ブロディ著「ミーム 心を操るウィルス」の冒頭の言葉です。

これはそっくりそのまま、このメルマガにも当てはまります。

しかしそれは特別なことではありません。私たちが何かを見たり聞いたりする時、私たちは多かれ少なかれ何らかの影響を受け、少しずつ変異しているのです。



ブロディは、ミームを以下のように定義しています。

『ミームとは、人間の行動を司るコード(プログラム)である。』

つまり、人間の脳はある種のコンピュータのようなものであり、プログラムを追加、変更することでその振る舞いが変わる、ということを言っていると理解できます。

そして、脳の振る舞いの変化は、脳によって制御される人間の振る舞いの変化であり、人間の集団である社会の変化を引き起こします。


『私たちが持っている基本的で根本的な仮説が変わるとき、パラダイムシフトが起きるという』 ~リチャード・ブロディ

ブロディは、ミーム理論が「私たちの生活と文化に対する見方を根本から変えてしまう力を持っている。」と示唆しています。そして、なぜわざわざ見方を変える必要があるのか、ということについて、≪地球は平面ではなく球である≫という考え方や、≪宇宙が地球の周りをまわっているのではない≫という考え方を例に出し、「新しい見方の方が納得がいくから」「世の中の動き方を説明するのによりよい理論であるから。」と説明しています。

彼はこうも言っています。

『ミームはあなたの人生を動かすことができ、現実に動かしている。おそらくは、あなたが気が付いているよりもはるかに大きく動かしている。』

そのようにミーム学が私たち人間にとって、よりよく世界を理解するための強力な理論となることを信じつつ、ミームの人間に対する影響力をとても重く見た彼が著書で最も伝えたかったのは、以下のような事柄でした。


『私たちは、私たち自身をプログラムするミームを自ら、意識的に、選択する必要がある。そうしなければ、ミームを熟知した一部の人間が設計した人工的なミームによって、思い通りにプログラムされてしまうかもしれない。』


…背筋が寒くなるような話ですね。

しかし私は、このブロディの見解には100%同意はできません。

ブロディの主張で引っかかるのは、「悪いミームが広がるのを食い止めるために、よいミームを広めよう」という部分です。いったい誰が、ミームの善し悪しを決めるというのでしょう?ブロディは彼の著書に書かれていることが「よいミーム」であり、人心を操作する「悪いミーム」を駆逐するために共に闘おう!と言っています。

ただ、ミームに関する知識を持つことで、心に取り入れるミームの選択に変化が起きることは確かであり、そういった意味で彼の著作(およびこのメルマガ)は大きな力を持っていると言っていいと思います。

ミームの振る舞いは確かにウィルスに似たところがありますが、ウィルスと違う点は、「それそのものが私たちの心を構成していると考えられる」という点です。
そして、地球という天体上の生態系において遺伝子たちが生き残りゲームを繰り広げているのと同じように、60億の人間の脳を舞台にミームたちがやはり「生き残ったものが勝者」というルールに従ってゲームを繰り広げている、という説明が、もっとも真実に近いのではないか、と私は考えます。


私はブロディの著書によってミームを知り、「パラダイムシフト」を経験しました。

しかしその数ヶ月後、スーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしての私」を読んで、私の世界観はさらに大きく転換することになります。

次号は、そのブラックモアの語るミーム論の世界にご案内いたします。


参考文献

ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊

ミーム・マシーンとしての私
スーザン・ブラックモア著
草思社刊

哲学する科学:文化の遺伝子、ミーム

今回は、ミームの哲学的な側面を探求する前に、まずは「ミームとは何か?」についてのお話です。

リチャード・ドーキンスが最初にこの言葉を作ったとき、それは「生物の遺伝子」に対比される「文化の遺伝子」として語られました。

ミームの「創造主」、ドーキンスによるミームの定義は以下のようなものです。

『ミームとは文化複製の単位であり、脳内にある情報の単位である』

つまり、私たち人間の形作る芸術、言語、風俗、科学など、ありとあらゆる文化はミームに還元でき、ミームの複製と伝達によって文化は広がってゆく、ということのようです。

ちょっとスケールが大きすぎて分かりにくいかもしれませんので、また身近な例で考えてみたいと思います。


→あなたは会社員で、最近メタボ体型になってきたとします。このままでは生活習慣病になる!という危機感から、電車通勤の区間内で≪毎日一駅歩く≫ことにしました。会社で周りの同僚にこの話をしたところ、1週間後には10名ほどが同じように一駅歩くようになりました。


上の例では≪毎日一駅歩く≫というのがミームの一例です。
これはあなたが作り出したミームです。そして、ミームは人から人へと、人間の模倣する能力によってコピーされていきます。
ミームとは脳内にある情報の単位である、とドーキンスは言っています。
ミームの複製メカニズムは、ある人が何かを思いつき、それを言動や行動で他の人から見える形に表し、まねをしたいと思った人がまねすることによって実現されます。

もちろん、どんなミームでもコピーされるというものではありません。
コピーされる度合いは、コピーすることによる(見掛け上の)メリットに比例すると考えられます。


なんとなくミームとはどんなものか、イメージしていただけたでしょうか?

「わかった気はするけど、≪毎日一駅歩く≫とかいう行動が広がることが、それほど人間の生活に大きな影響を与えるとは思えないなあ」という風に感じた方もいるかもしれませんね。


では、次はもう少し違うスケールの例を考えてみましょう。


→誰が最初に始めたかは、あまりにも昔のこと過ぎてその道の研究者にしかわからないかもしれません。しかし、私たち日本人の多くは毎年夏になると、家族で≪先祖の供養≫を行います。この習慣は、いつの頃かに日本中に広まり、さらに伝わった地域ごとに年月を経るに従って、生物の遺伝子のように変異してきました。いまでは、日本中で地域によってかなり異なったお盆の風習が見られます。


この≪お盆の先祖供養≫という習慣も、ミームの一種です。しかし、≪毎日一駅歩く≫というミームよりもはるかに古く、強力なミームです。
「強力なミーム」とは、コピーされる力が強いミームのことです。コピーされる力が強ければ、それだけ短期間で多くの人に伝わり、それは「常識」と呼ばれることになるでしょう。

こうしてかなりの数のコピーを獲得し、ある程度の大きさを持つ人間の集団内で共有されるようになった習慣は、「文化」と呼ばれることになります。そして、それを媒介しているのが「ミーム」という情報の断片である、というのが、ミーム学の基本的な考え方です。


≪戦争≫や≪宗教≫、≪思想≫、≪哲学≫、≪芸術≫、≪科学的思考法≫、≪新型インフルエンザの脅威≫、≪自民党はもうダメ≫、≪一生懸命はカッコ悪い≫、≪老いは醜い≫、≪働くことは素晴らしい≫、≪地球は温暖化に向かっている≫、…すべてミームです。(これらのミームの「善し悪し」や「正誤」についてはここでは論じていません。が、これらはすべて「強力なミーム」という共通点を持っています。)



ドーキンスは、「利己的な遺伝子」の中で、「人間は遺伝子の乗り物である」として、人間を含む生物と、遺伝子の主従関係を逆に描いて見せました。つまり、遺伝子こそ主役であり、人間をはじめとするあらゆる生物はみな、遺伝子が変異することによって作り出した、遺伝子が生き残るのに都合のよい乗り物にすぎない、ということです。がーーん(笑)

これは生物と遺伝子の主従関係の話ですが…

文化とミームの関係においても、複製の最小単位であるミームこそが主役であり、文化はそれによって派生している現象と考えると、ちょっと不思議な気分になってきます。

つまり、人間のあらゆる思想、哲学、信念、芸術作品、日々の習慣、私たちの心を駆動しているそれらは、ミームが生き残るために変異し、複製され、さらに変異していく過程で派生的に生まれている現象にすぎない。ミーム理論は暗に、こう言っているのです。


さあ、これを踏まえて、まずはブロディの「心のウィルス」説を次号では見ていきましょう。


参考文献

ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊

哲学する科学:ミームを知らないの?

リチャード・ブロディは当時、パソコンの『基本ソフト』、Windowsなどを作っているマイクロソフト社の社員で、Microsoft Wordの最初のバージョンを作っていた。

彼はある日マイクロソフト社のカフェテリアで、彼の尊敬する同僚のチャールズ・シモニやグレッグ・カスニックらと食事をしながら、なぜ無能で腐敗した政治家たちが当選し続けるのか、といったことを話していた。その話の流れの中で、チャールズ・シモニが突然こういった。

「よいミームだからだ。すぐれたミームだよ」

「すぐれた何だって?」とリチャード。

「ミームだよ。ミーーーーム!」と、チャールズ。

カスニックも言った。

「ミームを知らないのか?」

…学識も高くリスペクトする仲間たちが、知っていて当たり前と思っている、何やらとても重要らしい言葉。

こうして、リチャード・ブロディはミームの研究を始めることになる。


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ミームを最初に提唱したのはイギリスの動物行動学者、リチャード・ドーキンス。有名な著書、「利己的な遺伝子」の中でのことです。
「利己的な遺伝子」については既にかなり有名なのでここで詳細は書きませんが、ダーウィンの進化論について新たな見方を提示した本です。
すなわち、「生物の進化のために遺伝子が存在する」のではなく、「遺伝子が進化するために生物が存在する」という考え方で、生物学の世界にコペルニクス的転回をもらたしました。

そしてこの本の中で彼は、「文化」にも生態系にとっての遺伝子に相当する陰の主役が存在することを示唆しました。そしてそれに遺伝子(Gene)とギリシャ語の「模倣されるもの(Memene)」を掛け合わせて、「ミーム(Meme)」という名前を付けました。


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ブロディはその後ミームについて研究し、「ミーム ~心を操るウィルス」という本を書きました。

(もともとコンピュータ・ソフトウェアの開発会社でソフトウェア技術者として働いていた彼ですが、いまや彼の業績と主張は科学者たちの間でも一定の評価を得ています。)

その著書の中で彼は、以下のようなことを警告しています。

『私たちはミームにプログラムされている。』

『私たちはよいミームを選択して自分自身をプログラムしなければならない。』

『人類は、よりよいミームを選択することで、よりよい未来をつかみ取ることができる。』

彼の主張については後にもう少し詳しく見ていこうと思います。


蛇足ですが、私はずっと「ミーム」という言葉だけは聞いたことがあり、気になっていました。そして最初に読んだ、ミームについて書かれた本がこのブロディの著書でした。とても読みやすく、ミームという概念をわかりやすく説明していて、とても感銘を受けました。

しかし、その後読んだ別のミーム関連の書籍では、ブロディのものとはかなり違った主張が展開されており、私はそちらにより深い感銘を受けました。(実際は感銘などという言葉が適当とは思えない、強い衝撃と激しい興奮をも覚えました。)


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ともあれ、今回から本メルマガは新シリーズに突入し、「ミーム」という仮説が私たちの世界に対する認識にどのような変化を引き起こすのかについて考えてみたいと思います。

いままでこのメルマガでは、「私たち人間は、脳の中の無意識の領域において、その行動のほとんどを決定する生き物である。」「意識は3000年程度前に誕生したに過ぎず、それ以前の人間は意識なしで生きていた(かも?)。」「人間の意識は実は記憶の補助をするだけのプログラムである。」「<私>というのは意識が体験を記憶するために脳が生み出している幻想である。」といった仮説をご紹介してきました。


これまでご紹介した諸説で既に少なからぬ衝撃を受けられた方もいるかもしれません。

例えば、「人間は自らの行動を意識的に決めている」という「仮説」が、「人間の意識はどうやら大したことはしておらず、無意識がほとんど決めているらしい」という「仮説」で上書きされたとき、もしかするとあなたは軽いめまいを感じ、世界や人間や自分を見る目が多かれ少なかれ変わったのではないでしょうか?

「ミーム」は「文化の遺伝子」としてドーキンスに提唱された概念ですが、その後多くの研究者によって、心を説明する理論としても取り上げられ、研究されています。

このメルマガ『哲学する科学』では、ミーム概念の哲学的な影響について、特に掘り下げてみたいと思います。

それによって、私たちの、私たち自身についての理解がさらに変容することになるでしょう。


参考文献

ミーム ~心を操るウィルス
リチャード・ブロディ著
講談社刊

哲学する科学:無題

皆様、いつもご購読ありがとうございます。

本メルマガも創刊からはや2か月、今号で17号目を数えます。

創刊号から7号ほどでは、「私は死んだらどうなる?」という問いから出発し、あるロボット工学者の学説から、人間の脳の構造とそこから導き出される<私>の正体について迫り、人間の存在について新しい視点をご紹介できたと思っています。

8号から16号までは、様々な科学者や哲学者が「自由意思は存在しない」と言っていることについて、実際にいくつかの学説をご紹介し、「人が何かを決断するとはどういうことか」といったことについて、私なりの考えも多少述べさせていただきました。


次号から新章を始めようと思っていますが、その前にすこし、このメルマガの存在意義について、私がどう考えているかについてお話させてください。


子供の頃、少年向け科学雑誌などに触発された私は「いつか科学が世界のすべてを解き明かす。そして自分はそれを知ることになる。」と、漠然と信じていました。そして、未来は素晴らしいものに違いない、と。

しかし実際には、科学は未だ発展途上で、私は道に迷った子供のように、自分の人生にすらよい答えを見つけられていません。


一体私は、なぜここにいるのだろう。

どういう人生を歩めばいいのだろう。


あなたなら、このように追い詰められたとき、どうしますか?

私は、残念ながら特定の宗教を持ちませんし、人生の師といえるような人とも、巡り合えていません。哲学の入門書的なものを読んでみようとしましたが、あまり心に響きませんでした。

しかし科学の限界を知りつつも、最新の科学については未だに興味は尽きず、そして科学者たちのいくつかの学説、いくつかの言葉の中に、自分の抱えている問いへの答えを見たと感じ、前へ進む力を与えてもらったと感じています。



周りを見渡してみると、私たち日本人の心は拠りどころを失い、求心力のある政治家もおらず、多くの人が以前の私同様に途方に暮れて、またはただ流されるように日々を過ごしているように見えました。

私たち日本人は無宗教の人が多く、それも大きな要因と思えるのですが、わたちと同じように、確固たる心の拠りどころを持たず、いざという時に途方に暮れてしまう人に、宗教に帰依するのにも抵抗があり、よい師との出会いにも恵まれない人に、私が感じたある種の救いをおすそ分けできたら…ささやかながら、それが私がこのメルマガを書いている動機であり、書き続ける意義だと思っているのです。


もちろん、全く人生に迷ってなどいないし、単になんとなく面白いから読んでくれている、という方も大歓迎です。

まあ、私のモティベーションはそんなところからきていて、だから何の得にもならなそうなこんなメルマガを奇特にも書いているんですよー、という、何の役にも立たないトリヴィアとして笑い飛ばしてくれてよいです。

ただ私はそんな気持ちでこれからも書いていきますし、書きながら私も少しずつ変わっていきます。


願わくば私のその変化がよい方向のものでありますように。
そして読者の皆様にも、良い変化が訪れますように。
(誰に祈ってるんだろう?(笑))

哲学する科学:「意識」「無意識」「世界」

みなさん、こんにちは。

ここ数号では、意識と無意識についての学説をいくつかご紹介することで、私たち人間の自由意思はどこにあるのか、という問題に迫ってみました。

結論は・・・未だ科学者たちが追求している最中ですが、わかってきていることを簡単にまとめてみると、

 私たちは自分たちを「意識ある存在」であると感じていて、その「意識ある自分が自身の行動を決定している」と考えがちですが、実は「意識」はごくわずかなことしか同時に把握できない。

 実際にほとんどのことを把握し、決断しているのは私たちの無意識の部分であるという証拠も多く見つかってきている。私たちの意識は、無意識が決めたことをさも自分がやったことのように、<私>という主人公の物語として記録しているだけである、という意見もある。

 「私は私である」と考える「意識(自意識)」が人間に芽生えたのは、ほんの3000年前である、という説もある。それ以前の世界には人々には意識はなく、心の裡から聞こえる<神>の声に従って活動していたという。


・・・はたして、私たちには自由意思はないのでしょうか?


「意識」と「無意識」を分けて考え、さらに「私=意識」と考えると、答えは「Yes」です。

私たち(意識)は得体のしれない無意識によって動かされている人間という生き物の中にあり、自分では全く制御不能なこの存在が活動するのを眺め、自分がやったことと錯覚して日々を過ごしている、ということになります。

しかし、実は「意識」と「無意識」を分けることはできず、境目のない一つの実体であるとしたら、どうでしょう?

3000年以前の人間たちは誰一人、自分と世界の間に境界線を持たず、世界と一体となって暮らしていたと仮定してみましょう。

その頃の私たちの脳も構造的には今の私たちと変わらず、私たちの脳はある種のコンピュータのようなものとみなすことができ、生来の配線の上に、後天的な学習で無数のプログラムが作られていき、それらが協調して動作することで、私たちは考え、泣き、笑い、怒り、悩み、感動し、また何かを学習し、少しずつ変化しながら、生き続けていたとします。

しかしある時、私たちの中の一人が、自分と世界を区別するという発想を得て、自分に「私」というラベルをつけ、世界とは別のものと定義したとします。

その考え方はなかなかに面白く、それを知る人に時として大きな喜びをもたらしました。それは人から人に広まり、世代を超えて伝わり、やがて、世界中のほとんどすべての人の「心」に入り込み、誰もが「私は私だ」と考えるようになりました。

その考え方はしかし、私たちを不幸にもしました。自他を比べ、優劣を必要以上に気にし、自らの属する世界そのものすらを敵と考えさせることすらあります。

こうして、私たちは「私は私だ。しかし、私とは…いったい何なのだ?」という答えのない問いに向き合うことになったのです。


・・・これは、あくまで私の妄想ですが(笑)、


しかし、本当は意識と無意識は分けることはできず、無意識は体とつながり、体は世界とつながっているとしたら、、、私たちと世界もまた、分けることはできない、と考えることもできます。



19世紀の物理学者で、電気と磁気を統合する電磁気学の基礎を作った物理学者、マクスウェルは次のような言葉を残しているそうです。


「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身より大いなる何者かによって成されたような気がする」


マクスウェルの言った「大いなる何者か」とは、、、

≪それは無意識の領域で膨大な計算をこなし続けている、ニューラルネットワークの中の無数のプログラムたちである≫

ということもできるでしょう。ほんの少し前まで、実際私はこのように考えていました。しかし、


≪私の中の大いなる何者か、それは宇宙そのものである≫


ということも、ひょっとしたらありえるのかな…と、考え始めています。


21世紀の科学が、私がまた宇宙と完全に一つになるそのときまでに、もう少しだけ真実を私に見せてくれますように。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

2009年9月30日水曜日

哲学する科学:意識の起源

まずはじめに、アンケートにお答えいただいた皆様、ありがとうございました。意外と(?)長くない、というご意見が多くちょっとびっくりしました。(もし日刊だったら長い、というご意見も頂きましたが^^;)
これを励みにしてさらに精進したいと思いますので、皆様どうか今後ともよろしくお付き合いくださいますようお願いいたします。


さて今回は、「意識はいつ生まれたのか?」という視点から、意識の本質について考えてみたいと思います。

心理学者ジュリアン・ジェインズは、その著書「神々の沈黙」の中で、≪3000年前の人間は意識を持っていなかった≫と主張しました。その根拠とは、、、


『古代ギリシアの大叙事詩、ホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」に出てくる人間たちは、意識を持たず、裡から聞こえる神々の言葉に従って自動人形のように行動する。これらの古典を研究し、彼が提示した仮説は、「意識は人間が機能する上で特に重要ではなく、<私>という概念は、意識が形成する歴史的産物である。3000年以上前、人間には意識も<私>という概念も、人間が自分の裡に心を持っているという認識もなく、人はただ、自らの裡から聞こえる「神々の声」に従って行動していた。』

さらにジェインズは、
『当時の人間の心は二分されていて、右脳は非言語的な「神の声」を発し、左脳はそれを言語的に解釈して実行していた。しかし、ある時期を境に人々は徐々に神の声を聞くことができなくなっていった。しばらくは、神の声をまだ聞くことができる一部の人たちが、聞こえない人たちに神の託宣を伝える役割を担った。現代では、そのような声が聞こえることがあっても<幻聴>と呼ばれる。』
ともいっています。

何やらトンデモ系の匂いがしてきたぞ?とお思いの方もいらっしゃると思いますが、しかし彼が言うように、私たち人間は実は意識より無意識によって動いているということを私たちはすでに見てきました。
そして、意識の起源についてはジェインズ以外にも同様の意見を持っている人たちがいるようなのです。

科学史家のモリス・バーマンは、ジェインズ同様に意識が誕生したのは約3000年前としながらも、西暦500年から500年ほどの間、意識は再び消滅したのではないかと言っています。
『その時代の人間の行動には、一種機械的でロボットを思わせる特性があった』
そして中世末期、意識は復活したというのですが、彼の見立てでは、それは鏡の発明と深くかかわっているというのです。

つまり、人間は鏡という道具の登場によって、自意識をゆるぎないものとした、というのです。
『自意識の増大と、鏡の製造量の増加、およびその品質の向上とが、時を同じくして急速に起こったことがわかる。』

また、漢字は3000年前より以前から4000文字ほどが存在していたが、「心」という文字が現れたのは3000年ほど前からという話も聞いたことがあります。


実証はなかなか難しい仮説だと思いますし、実際証明された話ではありませんが…しかしとても興味深い仮説ではないですか?

…想像してみてください。


≪3000年より前の世界では、人間には「意識」がなく、「自分は自分だ」とも思わず、「あいつより成功してやる!」とか、「私はどうして不幸なのだろう?」といった考えも抱かず、ただ内なる声に従って生きていた。≫

それは、いったいどんな世界だったのでしょう?

すでに意識を持ってしまった私たちには想像しきれない部分あると思います。

しかし、人間が意識なしでも会話し、社会を作り、働き、子を生み育て、知識や経験を世代を超えて伝え、思考し、生き、そして死んでいくことができたのだとしたら…

赤ん坊は意識を持っていないと言われています。

意識とは、親から子へ、人から人へと受け渡される一種の「知識」のようなものなのでしょうか?

つまり、<私>というものはあるとき誰かが「発明」し、それが会話や本を通じて広まり、鏡の登場によって信憑性を増し、急速に広まっていった、と。

現代においても、<私>という概念を学習したその瞬間から、人は意識を持ち、世界を<内と外>に分け、<自分>と<世界>を別のものとし、その<世界>の中の<自分>の在り方などについて思いを巡らせてゆく…。

…なんとなく、<自他の区別>を自明とする<私>という考え方は、ないほうがもしかしたら世界は良くなるのでは?と考えたくもなります。

「意識のない世界」を体験してみたいと思って止まない今日この頃です。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

哲学する科学:「意識」は無責任?

ちょっとカタい感じが続いたので、今回はちょっと肩の力を抜いていこうと思います。(^-^)

~~~~~

前回ご紹介したように(読まれていない方はバックナンバーをどうぞ)・・・

人間の意思決定はほとんど無意識の領域にあり、意識はさも自分が決めたように感じているだけ・・・。

という仮説が本当であるなら、なんと幸せなことでしょう!

だって・・・


 失敗しても、
 「もう…無意識ったら、しょうがないなーっ」

 成功したら、
 「偉いぞ、自分!」


というように考えることができるではありませんか!(笑)



そうです。どうかご自分を、暖かく見守ってあげてください!

それこそが意識の果すべき役割かもしれません!(笑)


…いや、たぶん違うとは思いますが、そう考えると失敗もちょっとだけ怖くなくなったりしますよ!

~~~~~

自分を外から眺めると、やはり自由意思も決定に対する責任もあります。

私のメルマガでご紹介した諸説を信じて、

「<私>には何の責任もないし~、見てるだけだし~」

と言って好き放題し始めた人がいたら私、責任問われるんでしょうか?(^-^;)


何にしても、あなたの無意識とあなたの意識は運命共同体です。

そして、「<私>には責任なし!」とタカをくくる思考も、

実は無意識に端を発していると思われますので、

責任が「ある」のに「ない」と言っているだけの人として、

きっちり裁かれてしまうことでしょう。 ・・・ご注意下さい!

~~~~~

・・・えー、冗談はこのくらいにして・・・


私ごとになりますが、ここ1~2年で時間を見つけて本から仕入れた最新の科学的知識を自分なりに取り入れた結果、既成観念や常識がひっくり返るような経験をし、改めて自分の存在や生きる意味などを考えさせられました。

結果として、いまは何か吹っ切れたような新鮮な気持ちで日々を送ることができています。

皆様におかれましても、このメルマガで私がご紹介したことや、これから紹介していく内容の幾分かでもが記憶に残り、それによってなにか毎日が少しでも今までより豊かで素敵なものになったと感じられることを祈りつつ、書き続けています。

~~~~~

おかげさまで読者も少し増えてきたようですので、簡単なアンケートなどにご協力をお願いできないでしょうか。

以下の質問の答えを、mailto:thinking-science@live.jp までお送りください。今後の参考とさせていただきます。

 Q.一回当たりの文章は、長いですか?短いですか?ちょうど良いですか?

 ※個人的には、長くなりがちで読みにくいのではないかと心配しています。そのほか、ご意見・感想などあればどうぞご遠慮なくお書きください。いただいたご意見を参考に、さらに精進したいと思います。

では、また次号でお会いしましょう!

2009年9月28日月曜日

哲学する科学:決断しない意識

前回は、「私たちの意識が見ている≪現実≫は、私たちの無意識が構築する≪仮想現実≫的なもの」(かもしれない)

というお話でした。

今回は、「私たちの≪行動≫も、意識ではなく無意識がほとんどすべて決めている」(らしい)
というお話です。



アメリカの実験神経生理学者ベンジャミン・リベットは実験によって、人間が何かに気がつくのには0.5秒かかるようだということを発見しました。

次に彼が実験で検証しようとしたのは、

「人が何かを「行う」とき、意識より先に無意識が動き出しているかどうか」

ということでした。

そして、結果は「Yes」という答えを示していました。


この実験については、様々な文献がこの実験とその結果を取り上げている有名なものです。ここに、簡単にその概要をご紹介しておきます。

<実験の概要>

人の脳を電気的に観測すると、自発的行為に先立つ「準備電位」というものを観測できる。
被験者は、自分の好きな時に手首または指を急激に曲げるよう指示される。
このとき、被験者は自分がいつそうすると決めたかについて、光の点が2.56秒で一周する時計のような装置を見て、光の点の位置を報告する。
同時に、被験者の脳に取り付けられた電極から動作の「準備電位」を観測し、その時間的関係を調べる。

結果、以下のような順序で物事は起きているということがわかりました。

1.動作準備電位の発生

2.被験者が「今動かすと決断した」という報告

3.実際の動作

これが意味するのは、「意識的な決断に先立って、脳は体を動かす準備を始めている」ということだと、リベットは考えました。


この衝撃的な結果を受けて、多くの研究者が追試をしたり、反論したりしました。

結果の解釈についても様々な意見が出され、決着はまだ見ていないようです。

確かなのは、リベットの仮説は完全に証明されてもいなければ、否定もされていないということだけです。

…なんだか「Xファイル」みたいな書き方になってしまっていますが、これは物証のない純粋な仮説ではなく、ほかの多くの科学者よりも実験を重んじる性質のリベットにより、繰り返された実験結果をもとに導き出された結論であるというところに重みがあります。


この実験結果は果たして、「魂の不在」を意味するのでしょうか?


そして私たち人間には自由意思はない、ということになってしまうのでしょうか?


リベット自身はどう思っていたのか、最後にご紹介して今号を締めくくりたいと思います。

実験結果がしばしば「自由意思不在や人間=機械説、魂の不在の証拠」「観察可能な物質だけが現実に存在するすべてであるとする考え方(唯物論)の証明」のように取りざたされるこの実験を行った張本人のリベットですが、彼は

「唯物論の考え方は、証明された科学的な学説ではなく、決定論的唯物主義は信念の体系である。」
として、魂の存在を支持するかともとれる主張を行っています。

そして、こんな解釈を提示しています。

「原子が単体では持たない性質を複数集まって獲得するように、神経細胞の塊である脳は、全体として単体では示さない特性を示す。その特性によって形作られる≪意識を伴う場≫とでもいうものがあるのではないだろうか。」

そしてこの理論をそれを証明する方法などについても考えていました。

また、先の実験結果についても、「人間の行動は無意識に端を発するが、意識はその決断を拒否することだけはできる。」としています。

すべてを実験により検証する前に、彼は現役を退いています。

しかし、彼が多くの実験で得た結果は、脳のメカニズム(特に意識と無意識がどのように役割を分担し、意識がどのようにたち現れてくるかについて)、理論だけではなく実質的なデータを示したという点で、先駆的なものでした。


21世紀。リベットの残した実験結果と衝撃的な仮説からさらなる答えを見つけるのは、後に続いている研究者たちなのでしょう。



参考文献

マインド・タイム 脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:無意識が紡ぐ世界

『どちらにしても、私たちが見出したある知識によって、世界の現実性=リアリティへの確信が根底から揺らぐのです。』 ~ベンジャミン・リベット


ベンジャミン・リベットは米国の実験神経生理学者です。そして彼は、以下のような疑問を持っていました。

「脳内の神経細胞の物質的活動がいかにして、外界についての感覚的な気づき、考え、美的感覚、ひらめき、精神性、情熱といった、非物質的な現象である主観的な意識経験を引き起こすことができるのか?」

そしてその疑問を解き明かすために、1950年代から30年ほどの間、脳内の精神活動を様々な実験を通して捉えようとしました。そしてそこでわかったことは驚くべきことで、科学者たちの間で大きな議論のもととなりました。


彼が実験で最初に発見したこと。それは・・・


 ≪人間が何かに「気がつく」には、かならず0.5秒かかる。≫


というものでした。

例えば、いま誰かがいきなりあなたの手をつかんだ!としても、それにあなたが気がつくのは、実際につかまれた0.5秒後ということです。

…信じられますか?


では、具体的にリベットがどういう実験を行ったのかごく簡単にご紹介しましょう。

脳に疾患を持つ患者と担当医の協力のもと、患者の皮膚への刺激のタイミングと、患者が感じるタイミング、さらには、脳の感覚野(身体感覚を処理する脳の部位)へ電極を付け、皮膚に刺激を受けたのと同じ電位を発生させ、実際に皮膚に刺激を加えた場合の反応と比較する、といった内容のものでした。

そしてその結果は…

→電極を使って感覚皮質を刺激しても、0.5秒以下なら被験者はなにも感じない。

→感覚皮質を0.5秒以上電気刺激すると、被験者は皮膚を触られていると感じる。

→実際に皮膚を一瞬だけ触ると、感覚皮質は0.5秒活性化され、その後被験者は触られていると感じる。

ということは、触られたという感覚は、実際に触られた瞬間の0.5秒後にしか起きえない、ということになります。


しかし私たちは日常的に、皮膚に触られたら即座に感じるということを経験して「知って」います。上記の実験結果はこれに反するのではないでしょうか?それとも即座に感じるということ自体が錯覚だというのでしょうか?


この疑問に関するリベットの説明を、いきなり手をつかまれた場合に当てはめるとこうなります。

1.いきなり手をつかまれる。

2.0.5秒後に、手をつかまれたと気がつく。

3.脳の中で、手をつかまれた瞬間と気がついた瞬間が一緒だったということにされる。

なんだか、きつねにつままれたような気分になりますが・・・

つまり、私たちの脳(の無意識の部分)は、意識が体験する物語を作り上げている、ということのようです。

言い換えると、意識が見ている世界は、感覚器官からの入力や記憶にある事柄などを材料に、無意識が作り上げた仮想現実である、ということになるのかもしれません。

同じものを見ても、私たちの感じ方は人それぞれです。

それは、私たちが実は世界そのものを見ているのではなく、個性ある私たちの脳が無意識に紡ぐ世界を私たちが見ているからに他ならず、同じ世界はひとつとしてないのです。


最後に、リベットが著書の中で自分の発見の意味について語った言葉を贈ります。

『ある事象が起こった後の時点の意識的なアウェアネスにおける最大0.5秒間の遅延から、多くの哲学的な意味を引き出すことができます。』

『私たちは「今」の経験を生きようとする実存主義的な観点を変えなければなりません。私たちの「今」という経験は常に、遅延しているのです。』

『人それぞれの性格や過去の経験が、それぞれの事象の意識的な内容を変えてしまう可能性もあります。これは、人にはそれぞれ独自の意識的な現実がある、ということを意味します。』


参考文献

マインド・タイム
脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:意識と無意識の役割分担

「意識」に自由意思がないとすると、誰がそれを握っているというのでしょうか。


たとえば、


 今度の週末、ウィンドサーフィンに挑戦してみよう!と決めたのは誰?

 いつも僕の隣にいるこのひとと結婚することを選んだのは?

 明日の朝起きるとき、誰が二度寝の誘惑と戦うの?



脳の中の、実際に決定を下している部分には、名前があります。

それは「無意識」と呼ばれています。


~~~~~~~


現代人であれば、無意識という言葉は聞いたことはあるのではないかと思います。

そして常識的には、だいたいこんな風に理解されているのでは?

≪私たちが意識せずに何かをしたり感じたりすることは、私たちの無意識が行っている≫

たとえば、

 無意識に頭をかいていることに気がつく

 無意識に手が動いて机から落ちるコップをつかむ

 車が突っ込んできて反射的に避ける

れらは私たちの「無意識」が行っていることだと、納得できると思います。

しかし、前回の「意識の帯域幅」で見たように、意識がリアルタイムに処理できることは非常に限られているとすると、ほかのさまざまなこともすべて「無意識」が決めているか、少なくとも決定に多大な関与をしていると考えざるを得ないのです。


 無意識が連休で遊びに行く場所を決める

 無意識が携帯のカメラで写真を撮る

 無意識がとっさの思いつきで目的地の一駅手前で降りてみる


さらに、(次回詳しく見ていきますが)意識が「やる」と決めるより脳の動作準備電位が先に発生することを突き止めたベンジャミン・リベットらによれば、人間の一挙手一投足すべて、まず「無意識」が起動し、「意識」はそれを追認するのみであると言っています。つまり、こんな感じに。


 無意識がボールを投げる(意識がそれを眺め、意識が「自分が投げると決めた」、と錯覚する)

 無意識が歩く(意識がそれを眺め、以下同文)

 無意識が転職を決める(同上)

 織田信長の無意識が天下を統一する(同上)

 オバマ大統領候補が「チェンジ!」という(同上)


そして、創刊直後に何号かに亘ってご紹介したように、人間と同じように動き考えるロボットを作ろうと研究をしているロボット工学の研究者、前野隆司は、

≪「無意識」とは脳というニューラルコンピュータの中の無数のプログラムの連携によって作りだされ、「意識」とはその中の、体験をエピソードとしてまとめ、記憶するのを補助するプログラムにすぎない≫

ということが、研究過程で分かってきたと言っています。


…どうやら、私たちの「意識」の謎に迫るには、それと対をなす「無意識」について、認識を改める必要がありそうです。


次回の『哲学する科学』では、無意識はどのようにして「意識」が見ている「現実」を作り出しているかについて、アメリカの実験神経生理学者、ベンジャミン・リベットの知見をご紹介したいと思います。


参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

脳はなぜ「心」を作ったのか
前野隆司著
筑摩書房刊

マインド・タイム
ベンジャミン・リベット著
岩波書房刊

哲学する科学:意識の帯域幅

(少し間が空いてしまいましたが…)

今回は、情報学的な(?)見地から「意識」の限界に迫ってみたいと思います。

今回のタイトルにある「帯域幅」というのは簡単に言うと、一定の時間でどれだけの情報を処理できるか、ということを表す言葉です。

みなさんは、私たち人間が毎秒どのくらいの情報を処理していると思われますか?


~~~~~~~~


いろいろな計測方法があるかとは思いますが、単純に人間の感覚器官がどのくらいの情報を受け取れる性能があるかを調べると、人は毎秒ざっと1100万ビットもの情報を受け取っているらしいです。(視覚から1000万ビット、その他の感覚器官からは数十万ビットずつ)

…ビットというのは、「1か0か」を表現できる、情報の最小単位です。これが多数集まることで、より複雑な情報を表現することができます。たとえば、8ビットあれば「0から255のいずれかの値」を表現することができます。

しかしながら、私たちが「意識」できるのは、毎秒せいぜい数ビットから数十ビットという実験結果が多く報告されています。

もしそれが事実なら、実に毎秒受け取っている情報の百万分の一程度しか、意識は見ていないということになります。

そしてこのことは、以下のような簡単な実験をしていただければ実感することができてしまうのです。


 まず(安全な場所で)目をつぶってください。

 そして、一瞬だけ目を開けてまた閉じてください。

 さあ、何が見えましたか?


目を開けたのはおそらく0.1秒前後でしょうか。しかし、何か見えたかを一つずつ意識できるのは、そのあと何秒もかかったのではないでしょうか。

見えたものを思い返している間、1秒あたりにどれだけのものを意識できましたか?

1秒間にどれだけの情報を意識が受け取ったかをビット数に換算するにはちょっと工夫が要りそうですし、脳自体がどのように情報を格納しているかが明白でない以上は厳密な数字は出せませんが、それでも「そんなに多くない」ということは肌で感じられたのではないでしょうか?


~~~~~~~~


翻って、意識がわずかな情報しか受け取っていないにも関わらず、どうやら私たち人間は日々、1秒当たり数ビットの処理だけしているとはとても言えないようなことを行っています。

例えば…

音楽を聴いて、人間の歌声を含む複数の楽器が奏でる大量の情報をリアルタイムに処理して、得も言われぬ「感動」を体験するには、毎秒数十ビット処理するだけではとても足りそうにありません。ということは、音楽を聴いたときの感動は、脳の無意識の領域で形作られていると考えられるのではないでしょうか?

車や自転車を運転しているとき、目に入るすべて、聞こえる音、ハンドルから伝わる路面の感触を手に受け取り、車自体の動きを全身で感じ、それらすべての情報をもとに最適な判断を下し、同時に手や足を連動させてハンドル、ペダルなどを操作して、目的の場所へ安全に車を移動させているのは、一体誰なんでしょう?

テニスをしているとき、ボールの動きや相手選手の動き、自分足元の土や芝の感触、ラケットの握り具合などを受け取り、絶妙に体を動かし、一秒もかからずに相手選手のラケットからこちらのコートに飛んでくるボールを打ち返しているのは?


…意識がわずかな情報しか受け取っていないとすると、意識はこれらの複雑な処理を行っていないということになってしまいます。

意識が見ていないところで、これほど複雑な処理をこなしているのはいったい誰なのでしょうか?



簡単に言ってしまえば、私たちの中の意識ではないもの、つまり「無意識」ということになります。



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参考文献

ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ著
紀伊国屋書店刊

哲学する科学:自由意思って何だろう?

今回からの数号では、前回までの話に出てきた「自由意思は存在しないかも?」というお話をしていきたいと思います。

その前にまずは、自由意思ってなんだ?ということを確認しておきましょう。

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例えばあなたが今、お蕎麦屋さんにいてメニューを見ていると想像してください。メニューには、ざるそば、たぬきそば、きつねうどん、かつ丼セットがあるとします。

さて、あなたは何を注文するでしょうか?

+++++

もし「あなたに自由意思がある」とすれば、上記の状況では

「あなたはメニューの中のどれでも選べる」

ということを意味します。

しかし、もしあなたに自由意思がないとしたら、「あなたは選ぶことはできない」ということになります。



そして・・・「私たちの意識には自由意思はない」というのが、最近私が頻繁に接する、様々な科学者の学説にでてくる主張です。

もちろん、まだ証明されている主張ではありませんが、、、

そういう可能性もあるということすら、あなたは受け入れられるでしょうか?


つまり・・・

志望校や会社を選んだのも、

今乗っている車を選んだのも、

恋人や人生の伴侶を選んだのも、

すべて、意識ではない。ということです。信じられますか?


=====


もし私たちの「意識」が<脳内でエピソード記憶をするために脳全体の活動を自分がやっていることと錯覚している一つのプログラムにすぎない>のだと仮定すると、実際に決断を下しているのは脳の中にある「意識」以外の無数のプログラムたちということになります。つまり、「意識に自由意思はない」ということになります。

しかし、私たちが「私は私」と感じているのは「意識」であるとするなら、つまり、私というものは意識の中にしかないとするなら、どうでしょうか?たとえば、<私>というものは「意識」が体験を記憶するために用意した仮想の主体とするなら、そもそもそれが自由意思をもてるはずもありません。<私>を感じている「意識」を「私」と捉えてみても、やはりそこには自由意思はないわけです。

そして、時々刻々と無数の判断を下している脳の中の「意識」以外のプログラムたちは、「私は私」などとは考えておらず、小さな仕事の単位をこなす無数のプログラムがそれぞれの仕事をこなしているだけであると、多くの科学者が考えているようです。


こういう考え方を信じるとするなら、私たちは毎日起きるときに、自分で決断して起きているわけではないということになります。

しかしこの帰結は私たちの直観と真っ向から対立します。私たちのほとんどは、生まれてからずっと「私は私であり、私の決断はすべて私が下しているのだ」と信じて生きてきていました。だから、簡単には「私を私だと思っているこの<私>は、実は何も決めてないらしいですよ?」と言われても、「あんた、頭おかしいんじゃないの?」と口走ってしまうとしても、まったく正常な反応だと申し上げましょう。


でも、例えば…


ある朝、目が覚めて、「目覚まし時計を止めて」「さて、起きるか!」と考え、「いや、もうちょっと寝てたいな」とも思い、「昨日は何時に寝たっけ?」と自問し、「4時間しか寝てないのかー、じゃあ眠いよね」と睡眠の質を評価し、「そもそも寝るのが遅くなった理由は?」と再び自分に問いただし、「ゲームしてて4時まで起きてるのとか、どうかと思うよ」と自分を責め、「で、起きるの起きないの?」と話を元に戻し…そして「意識」くんは、これらすべてを眺め、最終的に後付けで、「昨日4時まで遊んでて寝不足なので、私は起きることができませんでした」という物語にまとめ上げる。


なんか、思い当たるフシはありませんか?

いや、ゲームして寝坊という物語にではなく、心の中で自問自答する自分を眺めている自分、というあたりに、ですよ。(笑)




次号以降では、「意識に自由意思がないとするなら、私たち人間の中のどの部分が自由意思を担っていると現代科学は考えているのか」について、さらに迫ってみたいと思います。

(つづく)

哲学する科学:自由意思は存在しない?

今回から、メルマガのタイトルを変更しました。題して、「哲学する科学」。科学が哲学的命題に迫り始めた現状をお伝えするこのメルマガにもっともふさわしいタイトルをやっと見つけたと感じています。

引き続き、哲学的な問題を抱えつつも、宗教や既存の哲学には満足できない科学世代のあなたに、科学的な回答の数々をご紹介していく所存です。

今後ともよろしくお願いします!


…ただこのメルマガ、本来は「日刊」ではなく「不定期刊」として登録したもので、しがないサラリーマンである私が時間があるときに、本から得た(私にとっての)驚愕の新事実を時々おすそ分けできればいいな、と思って始めた程度のもので、こんなに毎日ばりばり発行するつもりはありませんでした(汗)

なので、今後はもう少しペースを落として、「持続可能な発行」を模索していきたいと思います。(^^)

どうか皆様、しばらくメルマガが届かなくてもご心配なく。そして突然また、連日届くようになってもびっくりせずにお付き合いください。



さて、前号までは主に慶応義塾大学の前野隆司教授の説く「受動意識仮説」から、「脳は無数のプログラムによって動く機械」で「意識は記憶を助ける小さなプログラムの一つに過ぎず、自由意思は持っていない」。しかし「脳の仕組みが分かったことで鉄腕アトムのような人工的な心は作れる」し「ロボットや動物と共存する手塚治虫的な世界がやってくる予感」すらするという話でした。


しかし、前回までの話の流れの中でさらっと書かれていた、「自由意思は存在しない」的な話が引っかかっている方もいるのではないでしょうか?

と、いうわけで、次回からは「意識」と「自由意思」について、何回かに分けて少し掘り下げてみたいと思います。

(つづく)

科学が哲学(仮):死なない<私>の別の側面と、ロボットや動物と共存する素敵な未来  (哲学する科学 第7号)

このメルマガがスタートしてからの前号まででは、「死んだらどうなる?」という問いから出発し、「死んだらどうなるか本当に気になるのは、体ではなく心」であることを確認したうえで、「死ぬことを心配しているのは心の中の意識の部分」であると考えを進め、結局「意識とは脳が生み出す錯覚」であるがゆえに、「錯覚は死ぬことはない」という話に至りました。

しかし、<私>は錯覚だということを認めたとしても、だから私はしなない、ということでは「私は死んだらどうなるんだろう?」という問いの答えにはなっていない、と感じられた方もおられたかと思います。

実は、私もそう思います。

科学はまだ「私とは何者か?」という問いに決定的な答えを出せてません。私はこのメルマガの中で、様々な答えをご紹介していく予定です。

その中には、あなたにしっくりきて、人生観が変わってしまうようなものもきっとある、あるといいな、と思って書き続けていきます。


ところで・・・

前野説によれば、「とても複雑精緻だけれど、脳も機械に過ぎない。<私>という感覚は実は錯覚で、機械が寿命を迎えて停止すれば、思考も止まる。」ということになります。

とはいえ、前野教授はこうも言っています。

「<私>は錯覚だが、人が生まれてから死ぬまでの間に脳の中のプログラムたちが学習して身につけたものは、人から人へ伝えることができる。だから<私>は死なない。」

さらには、

「脳の仕組みはわかったので人間と同じように心を持ち、感情豊かで思いやりにあふれたロボットは作れる。」

「人間の脳の仕組みが分かったことで、人間はそれほど特別でないということも分かった。このことは、動物たちの地位向上にもつながる。」

といったことも言っています。

そして近い将来、鉄腕アトムのような人と変わらぬ心を持ったロボットが本当に現れ、また犬や猫や野生動物たちの心と人間の心がそれほど大きくかけ離れていないという認識の広がりから動物たちとの関係も大きく見直され、人間とロボットと動物たちが共存する社会がやってくるのではないか、ということも書かれていました。


人間の脳は機械であり、自由意思は幻想で、<私>も錯覚である。という絶望的とも受け取れる仮説は、それを受け入れて乗り越えることで、実に素晴らしい世界への扉を開くことになる。


「人間の尊厳」という言葉はきっと形を変え、上記のような未来でも、つかわれ続けていることでしょう。

私はそう信じます。

科学が哲学(仮):<私>は実在しない?  (哲学する科学 第6号)

ロボット工学者の前野教授は、意識は人の体験をエピソードとして記憶するための脳の機能に過ぎない、と言います。では、意識が感じる<私>とは、いったい何なのでしょうか?

前野教授はこう言っています。

XXXXXXXX
前野隆司の<私>も、隣の住人の<私>も、ほぼ同じ、脳に書き込まれた単純な錯覚の定義に従って生み出されたクオリアだ。一人の人間に、一つの<私>の定義があり、みんな同じように<私>という自己意識のクオリアを感じるように作られている、というだけの話なのだ。古今東西、何十億年という歳月と何十億人という世界の広がりの中で、あらゆる人の<私>は、すべて同じような、無個性な錯覚の定義の結果に過ぎないのだ。
XXXXXXXX

クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのもの、と教授は定義しています。

つまり<私>というのは、意識が記憶にしおりとして挿入する「クオリア」の一種で、「クオリア」とは結局のところ意識が体験を記憶し検索するのに都合がいいようにメリハリをつけるためのしるしでしかなく、すなわち実態のない錯覚である、ということです。

人間の「意識」は言ってみれば、「記憶補助プログラム」であり、<私>は錯覚・・・

しかし、私たちは日々さまざまなことを考え、決断を下し、いろいろな出来事に感動し、泣いたり笑ったりしています。これは意識の働きではないのでしょうか?

前野教授は、考えるのも決断するのも、泣くのも笑うのもすべて、無意識の領域にいるプログラムたちの活動であり、意識は川の下流で、流れてくるそれらを眺め、自分がやったことであるように錯覚しているだけだといいます。


単に結論だけ聞いても信じられないでしょうから、詳しくは前野教授の「脳はなぜ心を作ったか」を読んでいただくとして、一つだけこの仮説を支持する一つの実験のお話をしておきます。

(キムタク主演のドラマ「Mr.BRAIN」でも取り上げられたそうですが…)

アメリカの神経生理学者、ベンジャミン・リベットは、脳外科手術の患者の協力を得て、患者が指を動かそうとした瞬間と、脳に発生する「動作準備電位」の関連を調べたそうです。

驚いたことに、患者が「動かそう!」と思った瞬間よりも0.5秒ほど早く、動作を準備する電位が脳の中に現れることがわかりました。


これは、意識より先に、無意識の領域にいる別の脳内プログラムがすでに指を動かす決断を下してしまっているということを裏付けるものと考えられます。

そして意識は、後付けで「私が今、動かそうと思った!」と思っているだけで、それは、出来事(この場合は、「指を動かそうと思って動かしたこと」を記憶するためにそう思い込んでいるだけだ、と。

だから、<私>は単なる錯覚であり、ゆえに死ぬこともない、と。

科学が哲学(仮):意識とは何か (哲学する科学 第5号)

前回までで、「私は死んだらどうなるのだろう?」という問いは、「(私を私として私たちに感じさせている)意識とは何者?」というところまででした。

意識がなければ、「私は○○したら××かい?」とか考えることもないわけですから、そこを避けては答えにたどり着けません。

さて、意識とは何でしょう??



これには諸説ありますが、残念ながらまだ確定的な答えはでていないようです。
意識の謎は、21世紀の人類にとっての大きなテーマとも言えるでしょう。

そして、「意識とは何か」という問いは、哲学が追い求めている「私は一体何者なのか」という問いにも限りなく近いものです。
多くの科学者や哲学者が様々な説明を試みているようですが、ここではまず、前述した前野教授の説をご紹介します。

××××××××
意識(「私」)とは、脳の活動を要約し、エピソードとして記憶するためだけにある。
××××××××

へーっ(笑)。

しかし、記憶にとって重要な働きをしているのはいいとして…だけ、ってことはないでしょ?と思われた方もいるでしょう。
しかし、本質的にはそれだけだというのが教授の仮説です。

…では、その私たちが感じとっている<私>という存在は、一体何だというのでしょう?

………それは、「錯覚」らしいのです。

(つづく)

科学が哲学(仮):意識とは何か  (tetugakusuru kagaku

科学が哲学(仮):脳の中の心  (哲学する科学) 第4号)

(前回からのつづき)
脳が無数のプログラムによって動いているなら、心はどこに存在するのでしょうか。

脳科学者の松本元さんによると、心は以下の5つの要素から成り立っているそうです。

「知(知覚)」「情(感情・情動)」「意(意思)」「記憶」「意識」

4つ目までは脳の大きな機能とも言えるもので、脳のどの辺りが関わっているかも解明されてきていますが、5つ目の「意識」というのがくせものです。

こと「意識」にかんしては、脳のどの部位の働きかわかっていません。そればかりか、そもそも何のためにあるのかも定かではないのです。

一般には「脳の各機能を統合するためにある」と説明されているようですが、証明はされていません。
しかしながら、私たちが「私は私だ!」と考える時、働いているのは他でもないこの「意識」なのです。


つまり、「私の心は死んだらどうなるんだろう」と気を揉んでいるのは、脳の中の「意識」の部分ということですね。

では、「意識」は人が死ぬとどうなってしまうのでしょうか?

その前に、「私は私だ」と私たちに思わせている「意識」とは、一体なんなのでしょうか?

(またまたつづく)

科学が哲学(仮):心とは何か (哲学する科学 第3号)

「死んだら私はどうなるんだろう?」

…と、考えているのは私たちの心です。

では、その心とは何なのでしょう?

前回ご紹介した慶應義塾大学の前野隆司教授の説によれば……

――――――
人間と同じように心を持つロボットを作ろうとした慶應大の前野隆司教授は、まず人間の心を理解する必要に迫られました。

人間が物を考える時に働くのは脳である、ということに異論を唱える人は現代においては少数派だと思います。
前野教授もそう考え、脳がどうやって周りの世界を捉え、どうやって「死んだらどうなるんだろう?」などと考えるのか、その仕組みを理解しようと勤めました。

脳(大脳)は、たくさんの神経細胞<ニューロン>が集まってできた<ニューラルネットワーク>です。
生まれた時には、そこには殆ど何もプログラムされていない状態、つまり白紙のような状態ですが、脳は驚異的な学習能力を持っていて、感覚器官からの入力をもとに日々変化し続けていきます。
大脳におけるそうした学習は、ニューラルネットワークの中に次々と小さなプログラムを作り、それらを連携させることで達成されていくとのこと。
つまり言い換えると、人間の脳はコンピュータと非常に似ていて、新しいプログラムをインストールされながらそのプログラムに従って動作するシステムだといえますね。
ただしコンピュータと違い、人間の脳は自分で自分のプログラムをどんどん書き換え、進化し続けるというところが大きな違いです。また、動作速度はコンピュータの方が既にかなり早いですが、同時に動かせるプログラムの数は今のところ脳の方が圧倒的に多いというのも大きな違いです。

さて、脳の仕組みの話はひとまず置いて、「心とは何か」に話を戻しましょう。

脳が無数のプログラムで出来ているなら、それはどうやって心を形作っているのでしょうか?

(つづく)

科学が哲学(仮):死んだらどうなる?  (哲学する科学 第2号)

「私は死んだらどうなってしまうんだろう?」

多くの人が一度は抱いただろうこの疑問の答えは、ロボット工学者の前野隆司教授によれば、「私は死なない」となる。

何故か?

それを理解するには、「私とは何か?」というもっと(最も?)難しいテーマに踏み込むことになる。(゜o゜)ノ

――――――――

その前に………

単純に、「人間は物質のかたまりであるからして、死んだらバクテリアが分解して終わり。」という考え方もある。
または、「火葬にされて、灰になる。」 現代の日本では、この場合の方が多いですね。

これらの答えはある意味で正しいです。
質問が「人間の体は死んだらどうなるんだろう?」であれば。

しかし、多くの人はそれでは納得しないでしょう。
何故なら、私たちが「死んだらどうなるんだろう」と考えるとき、厳密に言えばそれは、

「「私は死んだらどうなるんだろう?」と思っている私の心はどうなるんだろう?」

ということでしょうから。ですよね?

質問が「死んだら心はどうなるんだろう?」であるなら、まずは「心とは何か」を大雑把にでも定義しなければなりません。

というわけで次回はちょっと回り道をして、「心とは何か」について少し書いてみたいと思います。

科学で哲学(仮)  (哲学する科学 第1号)

発行日時:2009/06/29 11:50科学で哲学(仮)

本文:

皆様ご購読ありがとうございます。
このメルマガは、最近私がいろいろな本を読んで知った、「哲学的な疑問に対する科学的答え」に関する話題を中心にお届けします。

人間とは何か?

意識とは?

自由意思とは?

文化とは?

宇宙とは??

といった問いに対する答えを、科学的な切り口でのいくつかの答えをご紹介することで、何かのお役に立てれば幸いです。


皆さんは子供のころ、「死んだらどうなるんだろう」と考えて眠れなくなったことはありませんでしたか?
私は、「ノストラダムスの大予言」という本を父から借りて読み1999年に世界が滅ぶと〈知り〉、「ねぇ、僕はおじいさんになるまで生きられないの?」と、泣きそうになりながら両親に何度も聞いたことを今でも思いだせます。


ロボット工学を研究している慶應義塾大学の前野隆司教授も、その著書「脳はなぜ心を作ったか?〈私〉の謎を解く受動意識仮説?」の中で、「子供のころ、死んだら私はどうなってしまうんだろう」と考えていたそうです。
そして、「私の心はなぜ、世界中のたくさんの人間の中で、この体を選んで宿ったのだろう。」とも考えていたそうです。

その答えは、彼が大人になり、人間のようなロボットを作る研究の道に進み、その頭脳をどう作るかを考えていく過程で見つかりました。

(つづく)